2008年1月6日日曜日

訃報が二つ 2005.8.30(NO31)

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昭和40年代後半 2005.10.28(NO32)

 故秋浜悟史氏が岸田戯曲賞を受賞した昭和四十四年、盛岡では老舗の劇団詩人部落が県教育表彰を受けている。記録では「ぐるーぷ・de・あんべ」(昭和43年旗上げ)が市内の喫茶店で公演しているほか、盛岡ミュージカルプロデュースが誕生し第一回公演(公会堂)が行われた。ほかには盛岡小劇場、詩人部落が公演を行っている。この時期、盛岡で活動している他の劇団は「劇団かい」のみだった。
 「ぐるーぷ・de・あんべ」の喫茶店での公演は画期的なものだった。3月から8月まで5本の作品を連続上演した。その全ての作品の演出が違う。座の中心人物だった、伊藤達夫、阿部史雄のほか詩人の内川吉男や既に地元戯曲家として多彩な活動をしている赤石俊一らがこの企画に参加している。
 当時の岩手日報でこの公演を次のように伝えている。。
『この実験公演は毎月一日だけ喫茶店を借り、ジャズ喫茶と同じように演劇喫茶の形式をとりながら発表活動を行っていく方針だが、いずれは演劇ばかりではなく、洋・邦楽、モダンダンスなど、さまざまなものを取り入れ、これまでにはみられなかったまったく新しい舞台を作り上げていくという。代表者の伊藤さんは「たとえせまくとも限られた条件のステージでも、月一回で発表の場をもてるということは、地方のアマ劇団としては願ってもないことですので、詩劇を中心にしながらいろいろな可能性をためしていきたいと思います・・」と語っていた。今回の実験公演は、県内演劇関係者の注目を集めている』
 かなり意欲的だ。同時に劇団活動というよりは劇場運動の初期形式と言ってよいだろう。当時の状況は、劇場プロデュース公演という例は極めて稀で、演劇の活動の基盤はあくまでも劇団でなければという考えが支配的だった。企画した伊藤氏らの考えが先鋭的に「演劇の場」の問題に踏み込んでいたとしても、周囲の演劇環境なり、県内の文化環境は「あくまでも実験公演」という線引きで彼らの活動を向こう岸に押さえ込んでいたのではないだろうか。上演作品にこれまでにない傾向と斬新な舞台づくりで定評のあった先発劇団の劇団かいは、昭和40年結成(阿部正樹ら)で、昭和47年の公演「冬眠まんざい」(秋浜悟史作)まで活動が続くが、この二つの劇団の活動がこの時代の演劇を牽引した。
 盛岡ミュージカルプロデュースも含め、昭和40年代半ばの盛岡の演劇状況は、盛岡演劇会・詩人部落の世代から、新しい世代への移行を予感させるものだった。
 しかし、こうした流れは県民会館が開館する昭和48年から50年代前半にかけて途絶える。劇団かいに続き、「「ぐるーぷ・de・あんべ」が昭和48年、盛岡小劇場が昭和50年、盛岡ミュージカルプロデュースが昭和51年、詩人部落が昭和53年以降公演活動の記録が見当たらなくなる。戦後演劇を担った世代も、その次の世代も、盛岡の演劇状況の主役から一斉に退場した。

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馬場勝彦さんのこと 2005.2.22(NO29)

 前号では、昨年8月に亡くなった劇作家赤石俊一氏について記された(藤原正教執筆)。
 もう一人、盛岡の演劇界にとって忘れることのできない方が12月に亡くなられた。馬場勝彦氏である。馬場さんは福祉の人として知られるが、演劇活動にも理解が深い。自身が創設され、その後の活動の原点ともなった「世代にかける橋」の活動分野に演劇活動的な部分もあり、演劇人との付き合いは若い頃からあったようだ。あるいは、市立図書館時代の小森一民氏らの影響かもしれない。
 馬場さんが、演劇人とはじめて本格的に協働したのが、アメリカ・デフシアターの盛岡公演だった。デフシアターはニューヨークを拠点とするろう者の劇団で、1981年の国際障害者年の記念公演で来日し、盛岡公演の予定があったが県教委で事業採択されず、市民が実行委員会を結成し、公演を実現させ、大きな話題となった。演劇人も福祉活動の人も一緒に汗をかいた。馬場さんは実行委員長として日々増え続ける実行委員のまとめ役となった。公演は成功し、剰余金の一部で、移動照明器具を購入した。小さな非劇場空間で演劇活動をせざるをえなかった当時の盛岡の演劇活動に大きな助力ととなった。
 盛岡の街を文化的な街にしたいと願う馬場さんは、次に旧盛岡劇場の保存復活運動に力を入れた。保存が建物の構造上難しいとわかると、新盛岡劇場の建設運動を推進した。キャパ700人のホールと100~300人程度の実験ホールを持つ劇場づくりを演劇・ロック・ジャズ等の愛好者とともに提言した。実験ホールは理解を得るのに難渋した。残念ながら演劇人の中にも異論があった。実験ホールの基本構想こそが、平成の盛岡の小劇場演劇に大きな役割を果たしてきた盛劇タウンホールのフットプランである。演劇=新劇、音楽=クラッシック、美術=洋画という括りだけはない「アナザーカルチャー」(その他文化)といわれるものを育てることで、人が育ち、街が元気になる、という持論からも実験ホールの実現には力を入れた。
 盛岡の演劇人が初めて海外公演をおこなった平成7年の盛岡・マニラ交流親善演劇公演のきっかけも馬場さんのマニラ育英会事業だった。育英会事業に関わった盛合直人氏ら演劇人の呼びかけで、公演は実現した。「私、佐藤太郎と申します」(作・おきあんご、演出・藤原正教)は、一千人を越す観客で大入りだった。馬場さんはこのころ既に体調を崩され、同行はかなわなかった。
 ほかに、中三アウンホールの活用、プラザおでっての建設、啄木・賢治青春館の開設に力を尽くされた。また、中津川沿いを多くの美術館やホールがある文化観光ゾーンにしたいという願いは長年の夢であり、その活動の源流を市民基点とすることは、ゆるぎない信念だった

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60年代の盛岡の演劇2 2004.10.12(NO27)

 「もりげき八時の芝居小屋」年代演劇シリーズが終わった。別役実の「或る話」(5月)、唐十郎の「腰巻お仙」(8月)、マリオ・フラッティの「金曜のベンチ」(9月)の三作品はそれぞれ特色のある舞台だった。あらためて、当時の変革への新しい息吹と豊かな演劇性に感心した。方法論や技術論、演劇の場に偏らない自由な発想は、今こそ、学ぶ必要があるかもしれない。
 このコーナーの趣旨からは少々脱線するが、60年代以降、随分、多くの演劇が生まれ、伝統演劇と現代演劇、東京の演劇と地域演劇の距離も縮まってきている。
 60年代にかけての劇場難は遠い過去だ。盛岡でも例外ではない。しかし、今、盛岡の演劇状況はどうだろうか。93年の国民文化祭から96年日本劇作家大会そしてマリオスの市民文化ホール落成(98年)まで、盛岡の演劇は一つの時代を築いていた。全国に「演劇の広場づくり」と「演劇の街盛岡」の名が広まり、行政等の視察が相次いだ。
 「演劇」が盛岡のブランドの一つとして観光パンフに掲載された。
 演劇の街に翳りが見え始めたのは99年頃からだろうか。不況という一因も否めないが、演劇人同士の協働やホールとの協働の場が狭まり、一般市民が演劇活動に参加し得る機会が少なくなってきた。ここは、ことの是非と原因を論じる場ではないので省くが、これまで歩んできた道が厚い雲に覆われ視界がひらけない。
 変革の時代を迎える前の演劇状況も同様ではなかったかと想像してしまう。「貧困の演劇」が新たな地平を切りひらくともいわれる。経済の貧困、技術の貧困、経験の貧困、そして環境の貧困。これらの貧困がバネとなって自由で新たな演劇とその「場が生まれたに違いない。
 さて、話を60年代盛岡の演劇状況に戻そう。
 岩手育会館が65年7月落成、講演会仕様のホールだが、舞台公演も工夫次第では可能で、会場難の盛岡の舞台芸術にとっては朗報だった。
 しかし、68年10月25日、芸術座公演を最後に谷村文化センター(旧盛岡劇場)はホールの幕を下ろす。翌月には専属大道具師だった斎藤勝州(斎藤五郎前盛岡演劇協会長の父)が亡くなる。
 劇団活動は、「劇団かい」(65年)、「盛岡小劇場」(66年)「ぐるーぷ・de・あんべ」(68年)が次々と旗揚げ、69年にはプロデュース公演で高い質の演劇活動を目指す盛岡ミュージカルプロデュースが誕生した。
 劇団かいの創設メンバーであった阿部正樹氏(IBC岩手放送)は、当時のことを次のように語っている。
 「旧態然とした盛岡の演劇に新しい風を送りたかった。イヨネスコや安部公房など当時の新しい演劇を積極的に取り上げたのはそうした理由からだ」(盛岡劇場物語より)

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60年代の盛岡の演劇1 2004.5.31(NO25)

 もりげき八時の芝居小屋」の企画、年代演劇シリーズがはじまった。
 第一弾が別役実の「或る話」、月の第二弾が唐十郎の「腰巻お仙」で、第三弾が9月(作品未定)に行われる。60年代の日本の現代演劇は、前半、新劇運動にかげりが見え始め、半ば過ぎからは変革への新しい息吹がものすごい勢いで噴出し始める。
 その時期、盛岡の演劇事情はどうだったろうか。
 まず、60年代前半(昭和35年~40年頃)頃を見てみよう。
 「盛岡劇場物語」(平成年刊)の年譜によると60年代の前半は、岩手芸術祭公演と文士劇公演以外の演劇公演記録はあまり見られない。
 しかし、県内の1960年、61年は岩手日報の紙上は、青年演劇の話題で賑わった。紙上では、ぶどう座主宰の川村光夫(劇作家)や詩人部落代表(当時)の小林和夫(劇作家)、教員、青年会の当事者等がかなりのスペースを割いて青年演劇のあり方を論じている。それだけ、青年演劇が高揚していた時期であったろう。
 1952年に全国大会で最優秀賞を受賞した湯田村青年会(岩手ぶどう座の前身)活躍を大きな契機として、六一年には県青年大会参加グループ数のピークを迎えている。
 61年の全国大会では江釣子青年会が全国大会で最優秀賞を受賞している。
 なお、川村光夫が率いる「ぶどう座」は61年に専用のけいこ場を落成させている。村内外から700人が募金に協力し、およそ80万円の浄財が集まったという。
 一方、盛岡では、戦後演劇の一端を支えていた職場演劇はすっかり影を潜め、一般の劇団の活動も停滞していた。
 劇団詩人部落は、芸術祭以外の活動はあまり活発でなく、老舗の盛岡演劇会の活動も低迷していた。新しい集団では62年に盛岡小劇場が誕生している。
 また、歳末恒例の盛岡文士劇も62年を最後に公演が中断される。小林和夫は危機感から盛岡を中心とした劇団に声をかけて代表者懇談会を開催しているが、その成果は芳しいものではなかったようだ。
 農村部の演劇活動の下支えが青年演劇なら、都市部の演劇は職場演劇や放送劇との協働によって支えられていたのではなかったろうか。職場演劇が衰退し、60年代はテレビの時代に突入、ラジオ放送劇も茶の間の話題から遠のく。
 当時の盛岡の演劇事情はどうだったのだろうか。はたして中央の新劇運動の翳りとは無縁だったのだろうか。
 このような状況下、岩手大学演劇部に新しい動きが見え始まる。アンチ・テアトルを標榜、斬新な舞台づくりに挑戦して実験的手法が注目された。
 61年にはイヲネスコの不条理劇に挑戦している。

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映画ロケと盛岡の演劇 2004.2.27(NO23)

 二月十三日、小樽を訪ねた。
 小樽は雪あかりのイベントで賑わっていた。壬生義士伝のプロデューサーである松竹映画の宮島氏から「映画・天国の本屋のロケセットを小樽運河の倉庫で公開しているから、是非見て欲しい」と勧められていた。
 小樽フィルムコミッションの実務責任者である小樽市観光振興課長が出迎え、ロケセットのことやロケ支援の内容について説明してくれた。「天国の本屋」は、盛岡のある書店から火がついて日本中を感動させながらロングベストセラーになった本を松竹が映画化したもので、今年六月に公開される。昨年夏の撮影に使ったロケセットをそのまま保存し、観光用に随時公開している。小樽は北日本でも有数の人気ロケ地で、平成十三年にフィルムコミッションが結成されてから百本以上のテレビ・映画のロケ支援要請があるとのこと。盛岡も北日本ではロケ支援の多いところだが、ロケ支援要請は小樽三分の一程度だ。
 小樽は市民参加によるイベント振興がさかんだ。小樽運河を市民活動で保存を実現させた実績が背景にあるのだろう。冬のイベントである「雪あかりの路」の従事者も「フィルムコミッション」のエキストラも多くの一般市民が支えている。演劇のさかんな盛岡でもエキストラ登録の市民は七十名あまり。小樽は三百人を超し、ロケセット公開の受付案内もエキストラ登録者がボランティアで引き受けている。
 盛岡ロケで有名な映画は昭和十五年公開の「馬」(山本嘉次郎監督、高峰秀子主演)。半年も盛岡に滞在し、後世に残る感動的な映像を残した。祭りのシーンや馬検場のシーンでは多くの市民が協力したという。
 戦後では昭和三十二年の松竹映画「花くれないに」のロケが市民の話題をさらっている。小山明子、笠智衆らが出演した青春映画で、監督は田畠恒男。盛岡はオール野外のロケで高松の池、中ノ橋界隈、馬検場、岩手公園などの名所が撮影場所となった。一般市民のほか、盛岡一高、二高の生徒各二百人が制服のままエキストラとして出演。路上のデモシーンの撮影では中ノ橋付近が見物客と相まって大混雑となり、数時間にわたって交通が遮断された。当時珍しかった総天然色(カラー)の映画で、盛岡がふんだんに紹介されるということもあり、市民の期待は高かった。
 この昭和三十二年、旧盛岡劇場は谷村文化事業団により全面改装され、「谷村文化センター」として再出発した。同じ年、市民による演劇鑑賞組織「盛岡芸術鑑賞協会」(現・盛岡演劇鑑賞会)が発足、谷村文化センターで第一回目の鑑賞会を実現させた。

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盛岡文士劇2 2003.10.28(NO21)

 現在、十一月末は恒例の文士劇だが、かつての文士劇は概ね十二月の下旬、年末に行われていた。当時の新聞は「歳末吉例文士劇」とかいう見出しで紹介している。
 人気絶頂の文士劇は、稽古場風景も社会面で記事となることがあった。
 「人気高潮の文士劇・出そろった新顔名優陣・南部さんすっきりした海軍士官」「メイ演技に湧き返る・同情月間『文士劇』に人気集中」(以上昭和二六年「寒夜に汗する歳末サービス・文士劇おけい古高潮」「文士劇の熱演・けんらんの舞台に沸く・同情週間のフィナーレ」(昭和二八年)などの見出しがその人気の高さを伝えている。
 そうした記事の中に、県外在住者からの便りを伝えた面白い記事がある。昭和二七年十二月二十一日、文士劇当日の岩手日報だ。
 「話題を咲かす文士劇シーズン」という飾り見出しの下に「検事正から舞台俳優に・長谷川氏のプロマイド届く」と見出しが続く。戦中の盛岡地検の検事正で、盛内政志さんら当時の盛岡の演劇人の活動を支えた長谷川検事正が検事をやめて俳優になったという記事である。
 文士劇の稽古に励む鈴木彦次郎氏のもとに、旧友の長谷川氏から自身の役者姿のプロマイドが添えられた手紙が届き、同氏を知る人の間で話題となった
 私は検事をやめ、その後一時公証人になりましたが、それもすぐやめて目下同封写真のように旅役者になってミーハー族のかっさいをあびています。(中略)舞台の味は貴下も文士劇で十分たんのうされていると存じますがナカナカいいものですね。演出家よりもそして脚本家よりも、そして検事正よりも・・・(後略)」と手紙に綴られていたという。劇団を組織し、自作自演の芝居をもって全国巡業しているというからすごい。
 長谷川氏のことは、一昨年、この欄で紹介したが、盛岡赴任中も演劇活動の支援ほか、統制下にかかわらず、官憲ににらまれていた丸山定夫や園井恵子ら苦楽座(後の桜隊)の稽古鑑賞会開催をすすめた。氏は学生時代から演劇に興味を持ち、思想関係の検事であったことから、演劇界の思想統制で数多くの演劇人と関係し、自らも戯曲に筆を染めていた。
 手紙をもらった鈴木彦次郎氏も驚いた。「いやあ、びっくりしましたネ。芝居好きな人だとは思っていましたが役者になるとはネ。しかしあの人らしい。人格者でいかめしいところは一つもない親しめる人でした。夫人も常磐津の名取りでした」と記事は伝えている。
 長谷川氏がいつまで芝居をしたか定かではないが、鈴木氏をはじめ盛岡の芝居好きは昭和三七年まで文士劇を続ける。
 そういえば平成七年に復活した文士劇、今年の演目は。その鈴木氏原作の「常磐津林中」。林中を演じるのが作家の高橋克彦氏。高橋氏もまた大の芝居好きで、鈴木氏のあとを継ぎ、現在の文士劇を牽引する。

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盛岡文士劇1 2003,8,6(NO19)

 この欄で、戦中の盛岡の演劇に理解を示した地検の長谷川検事正について記述したことがある。盛内政志さん(故人)や真木小苗さんとも親交があり、昭和二十年、統制下にもかかわらずつなぎ温泉に滞在中の園井恵子、丸山定夫(当時・官憲から要注意人物とされていた)らの劇団の練習を県公会堂で公開することを勧めた、その人である。
 その長谷川さんの戦後の消息が昭和二十七年の新聞に載っている。十二月二十一日の岩手日報だ。文士劇を間近に控えた鈴木彦次郎さん宛の手紙が紹介されている。
 鈴木彦次郎さんは小説家で、当時、県教育委員を務めていた。盛岡文士劇の創始者のひとりでもある。文士劇は昭和二十四年にはじまり、その年で四回目。毎年、満員の盛況復活して今年で九年目を迎える。当初は、復活第一回、復活第二回という具合に、復活という呼称を付していたが、今は省いている。
 戦後間もなく始まったかつての文士劇は、昭和二十四年にはじまり三十七年に幕を閉じた。はじまりは「盛岡市民が喜ぶようなものをやろう」と作家の鈴木彦次郎氏らが発起人になり、画家や名士、演劇人や芸者衆たちが加わった。歳末の盛岡の風物詩として大変な人気だった。幕を閉じた理由はなんだったろうか。盛岡劇場物語に文士劇の記録が詳しいがやめた理由は記されていないが、不入りが原因ではなさそうだ。マンネリだろうか。事務局や世話係の疲弊だろうか。
 復活文士劇も十年近くたち、市民の人気も高い。第一回の口上で桑島博盛岡市長は「文士劇を盛岡の冬の風物詩にしたい」と述べた。チケット発売日即日完売の人気は、他のイベントを圧している。高い人気は支えているのは、高橋克彦さんや畑中美耶子さんら常連の芸達者や時々の来盛ゲスト、陰で支える作家・演出家らスタッフの尽力である。しかし、長期の継続は組織なり運営に何かしかの疲労を蓄積させる。盛岡の風物詩として長く市民に愛され続けていくためにも、もう一度、文士劇を検証してみよう。
 復活文士劇は、平成七年、(財)地域創造の助成を得て「演劇の広場づくり事業」のメニューの一つとして始まった。
 それまで、IBC岩手放送の会長だった故河野逸平氏や斉藤五郎氏(前盛岡演劇協会長)が復活に向けての運動を試みていたが、なかなか関係者の理解が得られなかった。「県民会館」での実施で固執していたことと、どこが事務局を引き受けるかということが障害となっていた。
 多くの文士や演劇関係者は、大ホールでの文士劇に二の足を踏み、公会堂か盛岡劇場でなければ文士劇を復活させる意義を見いだせないと思った。県民会館の大ホールで復活しても、それは名士を利用した新しい集客イベントに過ぎず、盛岡の文化の復活ではないと思った。
 文士劇の出演者には出演料がない。手伝いのスタッフも半分はボランティアでの参加である。文士劇に参加することは「思い」という背景が必要なのである。
 「文士劇を盛岡劇場でどうか」と劇場職員を促したのが、当時、助役だった桑島市長だった。ここから全てが動き始めた。高橋克彦氏が賛意を示し、戦後の文士劇における鈴木彦次郎氏の役割である座長格となった。河野さんのIBCは赤字覚悟で舞台中継を引き受けた。斉藤五郎さんは事務局長となり、盛岡劇場が事務局を担当。演劇界の中堅リーダーたちが舞台をまとめた。
 内容は二部構成。一部が現代劇の盛岡弁芝居。アナウンサーに盛岡弁で芝居させるという試みが当たった。二部は懐かしい時代劇。はじめは「台詞を間違って笑われた」文士・名士も回を重ねる毎に上達した。進行、小道具、プロンプターなどは演劇人が支えた。

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高校演劇 2003,5,30(NO15)

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岩手芸術祭 2002,11,28(NO13)

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青年演劇と地域演劇 2002,10,8(NO11)

 

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宮沢賢治歩く 2002.5.21(NO11)

 五月三日、盛岡劇場から花巻まで歩いた。およそ四十㌔、午前七時に出発し、午後四時半に花巻市文化会館隣の「ぎんどろ公園」(宮沢賢治が教師をしていた旧花巻農学校跡地)に着いた。
かつて、宮沢賢治は盛岡劇場で観劇後、花巻まで歩いて帰ったそうだ。赤い風の元気な女優に「盛岡劇場から花巻まで歩こう」と誘われた時、宮沢賢治が歩いたコースを辿るのも面白いと思った。本論からはいささか外れるが、ちょっと賢治のことを振り返ってみたい。記録によると、賢治は二円を懐中に盛岡に出かけた。大正十二年五月初旬。入場料が一円、夕食代が五十銭、汽車の片道分が五十銭と、帰りの汽車賃を持っていなかったという。賢治全集ではこの時見た芝居は、東京大歌舞伎(前月末、北上で上演していることから)ではないか、と推測しているが、この時期、盛岡劇場では「日本少女歌劇団」公演(五月一日~六日)が行われている。
 賢治は夜十時、盛岡劇場を発ち、翌朝七時に花巻農学校に着いたそうだ。岩手山登山で鍛えた健脚だから40㌔程度の行脚はそれほど特別なことではなかったとは思うが、深夜である。自動車のない時代だから、見えるのは「月夜の電信柱」や列車の「シグナル」などか・・(まるで賢治作品だ)。国道沿いの松並木は賢治に何を語りかけたのだろうか。
 賢治は友人と二人で歩いたそうだが、平成の私たちは全部で七名、うち二名が山沿いの別コースで花巻に向い、一名が石鳥谷から合流した。深夜ではなく日中に歩いた。私たちは岩手山登山で鍛えた健脚の賢治ではない。気を張って歩かないと挫折しそうになる。
 大正十四年、県の公会堂建設費捻出のため、国道の松並木を切ろうという話しが出た時、賢治は反対した。今その松並木はほとんど姿を消している。ひっきりなしに行き交う車に閉口する。賢治と同じ夜に歩いても月明かりより車のヘッドライトが気になっただろう。
 賢治はこの時以外にも長距離を歩いている。前々月の三月、一関までハイキングし歌舞伎を見ている。また、同じ年の八月十二日、北海道、樺太旅行からの帰りに盛岡から花巻まで歩いている。この時は本当にお金がなくなってのことだったらしい。しかし、前年十一月に最愛の妹トシが亡くなっている。傷心の賢治は何かを求めていたのではなかろうか。この年、賢治は「シグナルとシグナレス」「精神歌」「植物医師」「オホーツク挽歌」「青森挽歌」などを発表している。
 同じ年、関東大震災があり、東京の芝居小屋も大きな被害を受け、地方巡業が多くなった。賢治の観劇機会も多くなったに違いない。しかし、この頃から、演劇統制も強まり(平成十四年学校演劇禁止令)、演劇が自由を取り戻すのは、東京が二度目の廃墟を経験する昭和二十年まで待たねばならなかった。

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戦中から戦後の盛岡の演劇(NO7)

 秋は芸術の秋。今年で五十四回目を迎える岩手芸術祭は演劇、美術、音楽、文学など芸術文化全般にわたる三十七部門の参加で盛岡を中心に県内で広く開催され、秋の風物詩の一つとして親しまれている。
 この岩手芸術祭、草創期の運営に奔走した一人に故盛内政志さんがいる。戦争末期から中断していた演劇公演が復活したのが、昭和二十一年秋。盛内政志さんらの盛岡演劇会による「ドモ又の死」などが行われたことは前号に記されている。戦後、昭和二十二年までの間に「盛岡演劇会をはじめ三つの劇団が活動を開始しているし、昭和二十三年になると劇団数は五つ」(盛内政志談)。プロ劇団を目指した表現座が二十二年、詩人部落が二十三年に公演を行っている。職場演劇や学生劇団も続々と誕生している。
 さて、芸術祭だが、国(文部省)の芸術祭は昭和二十一年に始まっている。会場は東京の帝国劇場など。翌年には岩手県で始まったわけだから、極めて早い。全国では栃木県に次いで二番目の開催だ。
 盛内さんは芸術祭開催の機運を次のように語っている。「敗戦をを境にして、それまで言いたいことも言えず小さくなっていた芸術家や自由を愛する人たちが時々県立図書館(当時の館長・鈴木彦次郎)に集まって話し合いをしてたんです。これからの日本は我々がどうにかしなければならない。私たちの時代だ、と気炎をあげていた。それが二十一年の暮れ頃、誰言うこともなく、皆で組んで芸術祭をやろうということになったんです」(岩手芸術祭五十回記念座談会から)
 戦中は大政翼賛会文化報国会としての活動以外は規制され、音楽にいたっては昭和十八年の歌舞音曲停止令によって、慰問等の活動以外は事実上停止の状況だった。盛内さんは「敗戦以前の二十年四月一日に、文化報国会を脱退、すぐに公演が出来るわけもなく、密かに勉強しているうちに敗戦になった・・・美術、文化などにおいても戦中から小さなグループがあって、制約された中だが、゛そこむし゛に活動していたんです」(同座談会)゛そこむし゛とは「黙々」という意味に近いが、もっと底しぶとくとかジックリと秘めた思いをこめながら、といったニュアンスが含まれる。だからこそ、戦後、束縛から解放され、一斉に表現の世界に人々は引込まれ、その思いが芸術祭開催の情熱につながっていったに違いない。当時、二十代の盛内青年は、鈴木彦次郎、深沢省三橋本八百二といった先輩方とともに芸術祭開催に奔走した。
 第一回芸術祭が終わってまもなく新岩手日報(当時)が参加各分野の代表者格を集めて座談会を開いている。これにも盛内さんが参加している。
 席上、画家の橋本八百二さんは「芸術は、産業経済あらゆる部面に日常生活と切っても切れないものであることを知らしめなければ」同じく深沢省三さんは「芸術祭は単なる催し物ではない。芸術と市民を結び付ける企てだ」と述べている。盛内さんは「劇団にテーマを与えて公演させたら」という新聞社の提言に「テーマというより、いいものを作るため各劇団から優秀人を集めて一つの舞台に」といわゆるプロデュース公演を模索した答えをしている。興味深い。

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戦時下の盛岡の演劇状況(NO5)

 岩手県芸術文化協会名誉会長長の盛内政志氏(岩手県演劇協会顧問。以下本文中、敬称略)が六月十一日、八十一歳で亡くなった。岩手・盛岡の近代演劇の幕開け時代を築いた演劇人の一人である。
 この「いわて演劇通史」の企画の立上げに際し、本誌編集委員会が「幕開け」の当時を知る三名の方による座談会を催した。盛内、沢野耕一郎、真木小苗である。私も聞き役として出席した。演劇通史2,3で述べた園井恵子や長谷川検事、翼賛文化報国会のことなどが、この会で語られた。昨年の六月十日の夜ことである。盛内は、ちょうどその一年後に亡くなったことになる。ここでは、盛内の談話を中心に、盛岡の戦中の演劇事情を振返ってみたい。
 盛内は、昭和十八年九月、明治大学を卒業、盛岡中劇に入社。文化報国会演劇部の活動に参加するのは、旧盛岡劇場で行われた第三回公演「太平洋の風」(八木隆一郎作、盛内政志演出)からだ。もっとも座談会での盛内談によると「学生時代から帰省の際、芝居を見ていて、陰ながらバックアップしていた」という。第一回公演は七月二十五日(貝殻島、村の飛行兵)だから盛内は夏休みの帰省で観劇している。昭和十九年から演劇活動に参加した盛内の役割は、チケットを捌くことや演出が中心。戦後間もない頃は二十代の若さで、盛岡演劇会の活動や、岩手芸術祭・盛岡文士劇の開催などで、主に世話人代表的な役割を務めている。
 戦中の演劇の稽古場事情はどうだったろうか。「大勢の人が集まってがやがや騒ぐ、大声をあげて怒鳴り散らすようなのに提供するところはなかったので、小さくなって借りて歩いた」(盛内談)当時、岩手文化協会の細川幹事長(公会堂多賀)が経営していた「味のデパート」(旧陸中銀行)や細川宅の離れが主な稽古場だった。盛内は学生時代から岩手文化協会の幹事をやっていた。盛岡劇場物語の年譜に「昭和十七年七月十二日、岩手公園で岩手文化協会第一回野外劇大会」とある。盛内は「これは演劇運動とは呼べない」と明快。ちなみ細川幹事長は、長岡輝子と幼稚園の同級生で、昭和十八年三月の文学座公演(盛岡劇場)のため奔走している。長岡輝子のほか、杉村春子、中村伸郎、森雅之らが出演している。
 報国会演劇部は、盛岡放送局の放送劇研究会を中心に芝居好きの仲間が一緒になって結成されるが、その中核にいたのが放送局の職員、茂木亮戒。報国会演劇部の初代部長である。旗あげ公演の「村の飛行兵」を演出している。真木小苗はこれが初舞台。茂木は昭和十九年に釧路に転勤。その後、盛内や放送劇研究会出身の沢野らが演劇部の中心になる。ちなみに、戦中の芝居の舞台装置は厨川の佐藤徳松。豊かな農家の出身で、報国会演劇部の殆どの舞台装置を担当した。
 戦争も終盤となってきた昭和二十年、盛内は、東京から珍しい疎開客を迎える。三百年以上の歴史を持つ糸あやつり人形芝居の「結城座」一家である。結城座は、中劇で映画の幕間アトラクションに出演していたこともあり、中劇を頼って、まず人形を盛岡に疎開させていた。
 一家は当初、仙台に疎開する予定で東北線の列車に乗り込んだ。しかし、仙台駅でどうにも胸騒ぎを覚え、当主の妻、竹本素京の提案で盛岡まで足を伸ばした。

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長谷川検事正のこと 2001,4,20(NO3)

 盛岡の近代演劇の幕開けは、昭和十八年七月二十五日に盛岡劇場で行われた県翼賛文化報告会演劇部の公演「村の飛行兵」「貝殻島」であった(盛内政志談)と言われている。その「村の飛行兵」で初舞台を踏んだ現在最高齢の女優の真木小苗は「当時は翼賛会でなければ芝居はできなかった」と語っていたが、前号で紹介した長谷川検事正は、この時期盛岡に着任していない。演劇や文化に理解があった長谷川は盛岡でどんな演劇に出会ったのだろうか。「とてもよくしてもらった」という当時初舞台を踏んだばかりの真木小苗に長谷川の印象を聞いた。
 「きりっとしたお洒落な方で、随分年が離れていたから、かなりの叔父さんという印象だけど、一度、芝居を見に盛岡劇場に連れて行ってもらったことがあって、 二人で一階の桟敷に座っていると、二階から検事正に芸者さんが声を掛け、検事正は手を振って応えるんです。もてたんでしょうね。それから、転勤で盛岡を離れるとき、演劇仲間たちから託されてお別れの記念品かなにか贈り物を持って行った記憶があります」(真木談)
 真木と放送劇団の頃から一緒に芝居をやっていた沢野耕一郎は更に検事正についてこう語っている。「長谷川さんは芝居が好きな人だった。ご自分でも芝居を書く方でね。ほら、裁判劇というやつ、そういう芝居の原作を書いていたんだ」
 長谷川検事正が盛岡を離れるのが昭和二十年四月。長谷川の人事異動と関係があるどうかわかないが、その四月一日に演劇部は翼賛文化報国会会から脱退している。沢野は三月に出征しているのでその事情はわからない。しかし、翼賛会に入らないと芝居が出来ない状況ではあったはずだ。その事情を盛内政志は次ぎのように語っている。「戦争に利用されたくないということです。勇気が要りました。大ぴらに芝居ができなるかもしれないと判っていましたから。それでも脱退して、盛岡演劇会を正式に結成したんです」
 記録では、盛岡劇場で最後に演劇が行われたのが昭和十九年十一月十二日、文化報国会の「太平洋の風」。「太平洋の風」は好評で、二週間後の二十六日、県公会堂で再演、翌月十日、陸軍病院でも上演している。その後、昭和二十年一杯、演劇公演の記録は見当たらない。
 前号で記した長谷川検事正がけしかけた「公会堂での苦楽隊・秘密の公開稽古」が行われたのが二十年の一月。園井恵子ら苦楽隊(後の演劇慰問団桜隊)は、東京での演劇活動がままならず園井が親戚づきあいしていたつなぎ温泉の愛真館を宿に三好十郎作の「獅子」の稽古に励んでいた。「 暗幕張った真っ暗なところで、獅子の稽古を見させていただいた。丸山定夫は詩を二編朗読してくれた」(盛内政志談)公会堂は警察署の真前にある。あたりを憚りながら公会堂に集まった演劇青年たちは目を輝かせながら丸山定夫や園井恵子らの一挙一動に演劇への夢を馳せていたに違いない。盛岡演劇会が正式に第一回公演を行うのは、文化報国会脱会から一年七ヵ月後の昭和二十一年十一月一日であった。

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長谷川検事正のこと 2001,2,20(NO2)

 新世紀を迎えて間もない一月十二日の午後、盛岡劇場・河南公民館の開館十周年記念市民講座「もりおか温故知新」が劇場のメインホールで行われ、生憎の雪模様にかかわらず四百人近い市民が集まった。
 かつて生姜町(現南大通り一丁目)にあった映画館「紀年館」(大正四年開館)のオーナー、円子正氏製作による記録映画「岩手の輝き」の上映会である。サイレント映画で、解説者兼弁士として太田幸夫盛岡劇場館長が登壇。朴訥ではあるがユーモア交じりで誠実な口調は会場を和ませる。
 上映された大正十二年の盛岡の風景は、以外にモダンである。旧盛岡劇場の完成が大正二年、旧盛岡銀行(現岩手銀行中ノ橋支店)は明治四十四年、大正十一年には、県立図書館が落成している。この年は九月に関東大震災が起き、秋から冬にかけて、盛岡劇場では幡街芸妓演芸会や太田カルテットの音楽会などが震災被災者救援のために開催されている。この時期、盛岡劇場での演劇といえば、歌舞伎や新国劇の公演のほか、芸妓衆の演芸会の出し物や曾我廻家一座の喜劇興行が多い。花巻農学校教師の宮沢賢治は花巻から盛岡劇場に幾度となく通ったという。演劇好き、音楽好きの賢治に盛岡劇場は大きな影響を与えたに違いない。
 盛岡劇場が出来て十年、大正の十年も、今日、平成の十年も盛岡は舞台文化が華やかに輝いていた。前の号で共著者の藤原正教が「東北に行ったら必ず盛岡劇場に立ち寄れ」と大正時代の旧盛岡劇場を紹介したが、平成の現盛岡劇場もまた全国の演劇人やホール関係者に理想の芝居小屋として認知されている。 旧盛岡劇場が出来て今年で八十八年。盛岡の舞台文化の歴史は盛岡劇場とともにあった。先人の舞台に対する深い愛情と労苦に感謝するとともに、劇場に関わる職員の方々も、演劇人をはじめとする盛岡の舞台関係者もこうした思いや歴史を継承する努力を怠ってはなるまい。。 さて、先人の中で、演劇に深い思いを寄せた人物を一人紹介しよう。
 盛岡地方裁判所(当時は裁判所の中に検察部門があった)の検事正だった長谷川瀏である。長谷川は昭和十八年十二月から二十年四月まで盛岡に赴任しており、その後、最高検検事になっている。明治二十四年八月の生まれだから、盛岡在住当時は五十歳半ば近くだった。
 岩手県芸術文化協会の盛内政志会長は、劇団盛岡演劇会の創始者の一人で、戦後間もなく、岩手県芸術祭や盛岡文士劇の立ち上げに尽力したことで知られているが、長谷川検事正について、こう語っている。
 「検事正さんは、戦前は閣下と呼ばれていた。県内で閣下と呼ばれる人は、裁判官や軍隊の少将以上の方など、ほんの一握りの人だけで、当時二十代の我々からすると、とても偉い人だった。その偉い人が、当時、特高などにも睨まれていた丸山定夫や園井恵子など苦楽隊(後の演劇慰問団桜隊=広島の原爆で被爆)がつなぎ温泉の愛真館に見を寄せていたとき、県公会堂でのお忍びの公開稽古の企画をけしかけたんですよ」
(以降の長谷川検事正の話は次号に続く)

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