2010年7月12日月曜日

いわて演劇通史55

昭和五十四年四月の劇団赤い風の「北点画廊」における旗上げ公演は、以前にも記したとおり、盛岡における小劇場演劇の本格的な始動を意味するものだった。ここでは、あらためて「劇場・ホール、演劇の場」からの視点で、赤い風結成からAUNホール開設(昭和六十三年十月)までの約十年間を数回にわけて検証してみたい。
今回は、その前記録・予兆について述べてみたい。
新聞紙上の記録でみると、赤い風の旗上げ公演前の小空間での公演は、昭和四十四年三月の「ぐるーる・de・あんべ」の喫茶店「花の木」での公演まで遡るが、これが契機となって小劇場演劇が広がったという気配はない。
この頃東京では唐十郎の状況劇場(紅テント)、佐藤信・山元清多らの演劇センター(黒テント)、鈴木忠志の早稲田小劇場、寺山修司の天井桟敷などの活動が華やかに伝えられ、新しい演劇、新しい演劇の場づくりが猛烈な勢いで広がり、もはや実験ではなく、新しい潮流となっていた。
近代劇場という演劇の場は、劇場のルールが上演スタイルを束縛し、鑑賞者の組織化で演劇の可能性をもついばんでしまう、というのが新しい演劇の旗手たちの主張だった。額縁舞台に代表される「演じる側」と「見る側」を厳格に区分するスタイルは演技・演出の自在さの束縛を意味し、そこからの脱却は、築地小劇場以来の日本の新劇スタイルからの脱却をも意味していた。勿論、劇場はほとんど千人規模のホールで、長期の予約が多く、一定以上の観客数を集める力がなければホールを押さえることができず、数百人の手頃なホールにしても既に、大手の新劇の劇団に押さえられ、若手の公演活動が制限されていたという現実が、当時の社会変革の激しい運動と相まって、新しい演劇の動きを誕生させた要因となったことも否めない。
「花の木」での試みが、盛岡の流れにならなかったのは、盛岡の演劇人の多くに昭和四十八年に予定されている県民会館のオープンを待望する声が強かったことと、東京の演劇状況がダイレクトに盛岡に伝わってこなかったからと推測できる。
盛岡の演劇人が東京の新しい演劇の流れを直接体験するのは昭和四十八年六月の演劇センター六八/七一(現・劇団黒テント)の「さよなマックス」(作・山元清多)の盛岡公演(盛岡八幡宮)だった。大学の演劇研究会に属していた私はこの公演を東京三鷹で見ている。初めての黒テント体験だった。
八幡宮の黒テントに集まった観客はわずか七〇名ほどだったという。詩人の高橋昭八郎、九月とアウラーの宮川康一、後に赤い風の結成に加わる「おきあんご」らがそこにいた。劇団(演劇センター)の制作担当は俳優の斎藤晴彦で、東北各地を周遊券でオルグに回り、地元の演劇人の家を泊まり歩いた。公演を支えた盛岡の関係者は公演の準備から当日まで、黒テントの仲間たちと夜を徹して語り合った。そこには、公演を「買う・売る」という従来の関係は成立しない。勿論、観客を鑑賞組織化することもない。
劇団黒テントと盛岡の関係は、今なお、同時代演劇の協働者という関係で持続している。黒テントという移動劇場は、盛岡に東京の演劇状況をダイレクトに持ち込んできただけではなく、盛岡の演劇状況に新たな流れの源流を生み出した。

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