2010年7月12日月曜日

いわて演劇通史54

劇団帯の会(平成二十一年十月十日解散)の結成を前にした昭和五十五年から五十七年は、若手劇団が覇を競うような勢いで上演活動を続けていた。特にも熟成期に突入した「九月とアウラー」と「亜季」、急激に観客動員を増やしていた「赤い風」の活動が顕著だった。また、県内では遠野、花巻、北上などの市民劇場が注目を浴びていた。
当時の記録を盛岡の劇団の活動を中心にさらってみよう。
九月とアウラーは、五十五年「ブラームスはもうにあわない」と「ある雨の朝突然に・・・」「ザ・ワープ」「しあわせの王子」の四本、五十六年は「ぼくのピーターパン」と「I LOVEドラキュラ」、五十七年は「桜散る春の風と思いきや」と「フライ フライ フライ」を県民会館、教育会館、中央公民館、善隣館など多様な会場で展開した。実にすさまじい公演数である。うち五本の脚本を藤原正教が手掛けている。これまでは既成作品か外部依頼の作品上演であったので、待望の座付き作家の誕生である。藤原に呼応するように演出の浅沼久も脚本を手掛ける。藤原のウェルメイドの作品もそうだが、特に浅沼の「桜散る春の風と思いきや」(会場・中央公民館)は斬新な舞台構成と人間の深層に切り込む男女の愛憎をテーマにした作品で、ミュージカル劇団という冠を脱したかのような意欲的な活動だった。
亜季は、五十五年「女学者」「ミュージカル・ゴンの贈り物」、五十六年はモダンダンスと朗読を組み合わせた舞台「智恵子抄」。五十七年は清水邦夫の代表作「ある愛の一群たち」「楽屋」を上演した。亜季は岩手県民会館職員を中心とした劇団で発足したが、ジャンルにこだわらない芝居づくりで、高校演劇出身者やOLなど外からの参加者も増えていた。しかし、昭和五十七年には県民ミュージカル「サウンドオブミュージック」を仕掛けるため代表だった田村隆が退団し、佐藤英也が代表を引き継ぎ、劇団の志向もどちらかというと手堅いオーソドックな現代劇に傾斜する。
赤い風は、五十五年土井晩翠賞を受賞したばかりの詩人・藤原美幸に戯曲執筆を依頼し、「世情虚実徒花怨滴命暫(よはなさけうそもまこともあだのはなうらみしたたるいのちしばらく)」を上演。五十六年は座付きのおきあんごを中心にした劇団員共作の「北街物語・血のフォーカスタウン」「北街物語・風の巡礼たち」を上演、初の遠征公演(花巻市)も行なった。五十七年は「北街物語・地上とは思いでならずや」「初志貫徹夜会」の本公演のほか、初のアトリエ公演「寿歌」「出発」の四本を上演した。座付きのおきあんご、創設メンバーの沢藤久司、坂田裕一のほか五十六年から参加した詩人の工藤森栄や新人・赤坂安盛を含めた複数の作・演出による集団的創造活動の展開である。赤い風で特筆されるのは、次々に非劇場空間を新しい演劇空間としを見つけ出すことである。初期の北点画廊で始まり、伊藤楽器ホール、中央公民館、カワトクダイヤモンドホール、稽古場(アトリエ)とこの三年間で新しい演劇空間を開拓し、その後はC&Aホールや中三AUNホールの開設に参加するほか、野外公演にも挑戦する。
他では「舞酔」が年一回の公演を手堅くまとめたほか、五十六年は「彦組と親衛隊」「ありじごく」の新しい劇団が発足したが、長続きしなかった。

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