2010年7月12日月曜日

いわて演劇通史53

昭和五十三年一月四日付けの岩手日報に「県演劇界の展望」と題する特集記事が載った。戦後三十年の県演劇界の流れを概観しながら、その課題と展望を探った記事だ。 
 特集では、待望の岩手県民会館が誕生(昭和四十八年)した後、県演劇界は「中央劇団来演という時代的風潮を反映して、創造する舞台から見せる舞台へと変ぼうする傾向も見られ、演劇創造活動の再検討を求められている」とまず、リード記事でその課題を指摘。県民会館完成に刺激され結成された亜季、舞酔の二つの劇団が「見せる舞台」に力量を示したが、今後に残るもの、という点では疑問が多い、と断じた。さらに、総じて演劇界の役者不足、若者の演劇離れの課題も挙げられ、地域にねざしたテーマの作品づくりへの提唱や、若手とベテラン、地域間の交流を説く当時の演劇界のリーダーたちの動きを伝えている。その中で、若手劇団として活発な活動を展開していた九月とアウラーの代表(当時)宮川康一氏は、次のコメントを寄せている。
「演劇は本来芸術活動であるから、多様な特色を持つ劇団が多いほどよい。それぞれ上演目的があり、各団体で異なっているのだから拘束的な大同団結は疑問であり、書き手、役者は劇団内で育成すべきもの」
 正論である。演劇人口が極めて少ない当時の現状を考えるとまず、演劇人たちがしなければならなかったのは、安易な合同公演の類ではなく、演劇の可能性のウイングを広げるとともに、人材を育成する環境づくりを行うことだった。当時から着実な活動を続け、今なお健在な活動を展開している湯田のぶどう座、宮古の麦の会は、座付きの作演出家の存在が大きい。盛岡の雄だった詩人部落が、座付き作家の不在や吸引力のある役者や演出家を育てられなかったことにより衰退していったことを考えあわせると理解しやすい。
 同時に、当時の日本演劇界は伝統的な新劇スタイルからものすごい勢いで脱皮しようとしていた時だったが、盛岡の演劇界は、その動きにどちらかというと忌避していたと思われる。それで、若い世代の演劇離れと嘆いても説得力はない。
 しかし、県芸術祭演劇部門の開催方法をめぐって県内の劇団が一同に会し、休眠状態だった県演劇団体連絡協議会(現・岩手県演劇協会)を再発足させ、盛岡以外での開催もルール化したことの成果は大きい。他の部門が今なお盛岡開催が中心なのに対し、演劇部門は三〇年以上も県内五地区開催を継続している。この再結成に呼応するように岩手日報は「演劇の周辺」と題し、盛岡ばかりではなく県内全域の主な劇団の活動状況を大きなスペースで連載紹介した。
 若手の育成では、昭和五十二年から県民会館で高校生のための舞台技術講座が始まった。この講座は、盛岡劇場が誕生してからは盛岡劇場に引き継がれるが、多くの高校生たちがここで舞台技術を学び育った。ただ、演出術、演技の習得というところでは不満が残る。高校演劇発表会での審査では、現役を離れているベテラン演劇人が審査員に名を連ね、一時代前の演劇観を高校生たちに説く。この現象はこのあとしばらく続き、いまだに、岩手県の高校演劇は東北大会の壁を打ち破れず、全国大会に出場できない状態が続いている。

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