2010年7月12日月曜日

いわて演劇通史44

劇団赤い風の初公演は、結成翌年の昭和五十四年四月。三週続けて毎週土曜日に昼夜二回公演を行った。合計六ステージ。会場は盛岡市本町通りの「肉の川喜」の三階「北点画廊」。小規模なギャラリーで、一角に演技空間をつくり、観客は三十人も入れば満杯という狭い空間だった。
作品はおきあんごの「バアーン」。メンバーは盛岡に小劇場演劇の風を吹かせたいと意気込んでいた。しかし、届いた台本の枚数は、四百字詰めの原稿用紙で二十数枚。読み合わせをすると三十分もかからない。役者にとってはなんとも物足りない。参加者全員からのブーイングで、結局、作家が責任をとって一時間以上の芝居に仕上げるからという約束をし、演出も担当することになった。
この作品には実は虚実入り交じった逸話がある。もともと「おきなんご」の処女作は、演劇集団九月とアウラーの公演用に書かれたものである。しかし、実際は、公演はおろか練習の俎上にも上っていない。当時の代表者である宮川康一に「上演するとしたら、上演費を提供してもらわなければ」と言われ、台本の提供を断念したという。作家に上演料を払うのが普通だが、作家が上演料を払うというのは前代未聞だ。その作品が「バアーン」であったかどうか、上演料の請求は本当にあったのかどうか、両当事者に何度か話題にしたことがあるが、両者の意見はいつも微妙に食い違い、確信ある返事を聞いたことがない。
赤い風は役者中心の劇団で、初公演に際し、音響に盛岡市職員の萬英一、照明に岩手県民会館の佐藤英也が助っ人で参加した。
練習会場は、当時医大生の「第五列」(個人)が装置と役者で参加するということで、医大教養部の学生会館(?)の一室をお借りした。
初日の公演は、四月七日、マチネー(昼の部)である。役者は衣装メイク万端で、控え室で開演の指示を待っているが、受付兼演出のおきあんごからの指示はなかなか来ない。「まだですか?」「まだだ」「いつまで待つんですか?」、「客が来るまで」。開演時間に客は一人もいなかった。
十五分ほど待ったろうか。やっと客が来た。女子高校生三人。赤い風の舞台が開いた。役者が五人だから客の方が少ない。必死となって観客と向かい合った。狭い空間である。客の息づかいも聞こえる。女子高生がクスッと笑う。固く肩に力が入った演技がスーッと和らぎ、客との呼吸が合いはじめる。
夜の部が終わると、頂き物のお酒とお菓子で客席は観客と交流の場になった。詩人、画家、マスコミ関係者など、様々な観客と即席の合評会が始まる。「小劇場演劇はかくあるべき。作家至上主義、演出至上主義、役者至上主義を廃し、観客とともに」などと論じ、その日の観客の意見を直ぐ、翌週の演出に反映させ、本の手直しも行った。
この大胆な旗揚げ公演は各方面の大きな話題となる。それに一役買ったのが岩手日報の学芸欄である。三枚の舞台写真と詳細な劇評を交えた七段組の記事が載った。それ以後の公演は満員以上の盛況だった。
そこに、「祝公演」と記された「大根」と「醤油一升」が九月とアウラーのM氏から届けられた。「役者」に「大根」は禁句である。
九月とアウラーと赤い風のライバル心と友情の長い歴史の始まりである。

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