2010年7月12日月曜日

いわて演劇通史42

いわてアートサポートセンター技術監督の大泉千春(劇団赤い風)が8月19日に、48歳の若さで急逝した。この数年、盛岡の演劇に影響を与えた演劇人の訃報が相次いでいる。遠野物語ファンタジーの作家「赤石俊一」、岩手出身の唯一の岸田戯曲賞作家「秋浜悟史」、商業演劇の演出家「宮永雄平」そして大泉千春。葬儀の弔辞や交流のあった幾人かの演劇人の話を聞きながら、岩手の舞台を裏から支えた人材について考えてみた。
 大泉千春の初舞台は赤い風のアトリエ公演「嗚呼鼠小僧次郎吉」で、寺山修司作の「ガリガリ博士の犯罪」での度肝を抜く演技でキャラを立たせた元々は役者系の人材であったが、多くの若い演劇人たちが影響を受けたのは、AUNホールやアートサポートセンターの舞台責任者としての指導であり、そこから演劇のあり方を学んだ。
立派な劇場ホールが林立し、演劇スタッフが分業化する中、大泉のように、演出家と対で話すことができ、役者もでき、スタッフへの指導力も持ち合わせている劇場スタッフは極めて少ないが、これまでの盛岡の演劇史をちょっと裏側からメスを入れると、舞台スタッフ系の人材が演劇振興に大きな役割を果たしてきたことがわかる。
まず、劇場スタッフの草分けというと、旧盛岡劇場(谷村文化センター)の大道具師の斎藤勝州だ。氏は旧盛岡劇場(当時・谷村文化センター)が事実上閉鎖される昭和43年に、岩手県民会館の誕生を夢見て亡くなった。その3男が、県民会館の施設課長や市民文化ホールの館長を歴任した、元盛岡演劇協会会長の斎藤五郎氏だ。劇場付きのスタッフは、たんに舞台技術に明るければいいということはない。斎藤親子は、劇場で行われる様々な催し物を通じ、舞台表現を通底する地域の文化のありようを学び、舞台表現と暮らし文化を結びつけるコーディネーターとなっていく。特に、斎藤五郎氏は盛岡文士劇や多賀神楽の復活に尽力する。
次に大きな役割を果たしていくのが盛岡舞台総合研究所の代表、工藤末三郎氏(元岩手県演劇団体連絡協議会会長)だ。照明・音響等の舞台会社を経営するとともに「盛岡ミュージカルプロデュース」を立ち上げた。作家・赤石俊一さんとのコンビで優れた舞台をつくった。
次の世代の代表は、舞台会社アクトディヴァイスを経営する浅沼久氏(岩手県演劇協会副会長、九月とアウラー演出家)だ。ご自身は勿論だが、会社のスタッフのサポートも力強い。東北演劇祭や国民文化祭などのイベントをはじめ、大きな演劇公演では氏ら舞台技術のプロスタッフの力に頼ることが多い。
昭和53年の劇団赤い風の誕生が、岩手における本格的な小劇場演劇のスタートであるとすると、初期の赤い風の技術的な貧困をサポートした佐藤英也氏(劇団亜季元代表、岩手県民会館勤務)の力は大きい。作家と役者に偏り、舞台に無頓着な小劇場演劇に手づくりの照明設備で、ギャラリーなど非劇場空間を劇場化した。佐藤氏には盛岡劇場の照明設備・音響設備システムも指導いただいた。
まだまだ列挙しなければならない人材は少なくない。舞台系の人材は、作家や演出家に比べ、どちらかというと陰に隠れがちではあるが、盛岡の演劇にとっては大きな存在だ。真剣に演劇を盛り上げることに情熱を傾ける舞台系人材の育成をおろそかに出来ない。

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