2010年7月12日月曜日

いわて演劇通史37

文化状況の「現在」を享受している私たちは「現在」の原型を築き上げるために汗した先達をとかく忘れがちになる。忘れる以前に正しく伝承されず、現役であることの強みを振りかざし、一刀両断に「古い」とか「過去の話」と切り捨てることすらある。
表現の現場は常に新しさへの挑戦であり、固定概念の打破であることは否定しない。私自身もそうでありたいと思う。しかし、だからと言って先達の表現や活動実績にかかる検証と伝承の努力を怠っていい、と言うことはできない。
この連載は、盛岡を中心とした演劇の活動史の掘り起こしを一つの役割にしている。記述にあたって参考にしているのは岩手日報の過去の記事や先輩諸氏からの聞き取りであるが、どうしても書き手の「現在」の視点(若い演劇人にとって、書き手自身も古い概念に属するかもしれない)による価値判断がベースになる。その過程でとんでもない誤解や検証漏れの危うさも潜んでいる。
故盛内正志氏(元盛岡中央映画劇場社長、前岩手県芸術文化協会長)のことについては、この連載でも幾度か取り上げ、氏が尽力した芸術祭や盛岡文士劇の始まりについて記述し、一段階したというつもりになっていた。先頃、遺族から、盛岡市に氏の映画演劇資料や書簡類が寄贈され、大通りリリオで行われた「シネ街ック」で一部公開された。これまで氏の活動は演劇界、芸術文化分野でのリーダーとしての記録が中心であり、演劇の現場、演出家・盛内氏の活動はあまり紹介されたことがなかったが、今回公開された資料の中に「演出ノオト」があった。
 アプトン・シンクレア作「世界の末日」にかかる盛内氏自身か記載した二冊の演出ノートである。一冊四十ページほどのB6版ほどの学生ノートが隙間なく記載されている。一冊は、演出にあたっての基本的な考え方が記され、もう一冊は、舞台上の役者・置き道具の動きがシーンごとに、台詞のきっかけも含めて記載されている。
慌てて、盛岡劇場物語(平成八年発行)の年譜をあたってみると、「世界の末日」は昭和二十五年十一月十二日、劇団盛岡演劇会の岩手芸術祭参加公演として岩手県公会堂で行われていた。
アプトン・シンクレアはアメリカの社会派作家(一九七八年―一九六八年)として知られ、「世界の末日」は第三次世界大戦をテーマに書かれた戯曲だ。日本では昭和二十五年に中央公論社から出版されている。
盛岡演劇会は戦中の県の翼賛文化報国会演劇部が戦後改称されたもので、改称後の第一回公演が昭和二十一年十一月に行われ、盛岡の戦後演劇の黎明をリードしていた。盛内氏は盛岡演劇会のリーダーでもあった。
次号では盛内氏が何故、この作品を取り上げ、どう演出しようとしたのか、自身が記した「演出ノオト」から紹介してみたい。

ラベル: ,

0 件のコメント:

コメントを投稿

登録 コメントの投稿 [Atom]

<< ホーム