2008年1月6日日曜日

昭和40年代後半 2005.10.28(NO32)

 故秋浜悟史氏が岸田戯曲賞を受賞した昭和四十四年、盛岡では老舗の劇団詩人部落が県教育表彰を受けている。記録では「ぐるーぷ・de・あんべ」(昭和43年旗上げ)が市内の喫茶店で公演しているほか、盛岡ミュージカルプロデュースが誕生し第一回公演(公会堂)が行われた。ほかには盛岡小劇場、詩人部落が公演を行っている。この時期、盛岡で活動している他の劇団は「劇団かい」のみだった。
 「ぐるーぷ・de・あんべ」の喫茶店での公演は画期的なものだった。3月から8月まで5本の作品を連続上演した。その全ての作品の演出が違う。座の中心人物だった、伊藤達夫、阿部史雄のほか詩人の内川吉男や既に地元戯曲家として多彩な活動をしている赤石俊一らがこの企画に参加している。
 当時の岩手日報でこの公演を次のように伝えている。。
『この実験公演は毎月一日だけ喫茶店を借り、ジャズ喫茶と同じように演劇喫茶の形式をとりながら発表活動を行っていく方針だが、いずれは演劇ばかりではなく、洋・邦楽、モダンダンスなど、さまざまなものを取り入れ、これまでにはみられなかったまったく新しい舞台を作り上げていくという。代表者の伊藤さんは「たとえせまくとも限られた条件のステージでも、月一回で発表の場をもてるということは、地方のアマ劇団としては願ってもないことですので、詩劇を中心にしながらいろいろな可能性をためしていきたいと思います・・」と語っていた。今回の実験公演は、県内演劇関係者の注目を集めている』
 かなり意欲的だ。同時に劇団活動というよりは劇場運動の初期形式と言ってよいだろう。当時の状況は、劇場プロデュース公演という例は極めて稀で、演劇の活動の基盤はあくまでも劇団でなければという考えが支配的だった。企画した伊藤氏らの考えが先鋭的に「演劇の場」の問題に踏み込んでいたとしても、周囲の演劇環境なり、県内の文化環境は「あくまでも実験公演」という線引きで彼らの活動を向こう岸に押さえ込んでいたのではないだろうか。上演作品にこれまでにない傾向と斬新な舞台づくりで定評のあった先発劇団の劇団かいは、昭和40年結成(阿部正樹ら)で、昭和47年の公演「冬眠まんざい」(秋浜悟史作)まで活動が続くが、この二つの劇団の活動がこの時代の演劇を牽引した。
 盛岡ミュージカルプロデュースも含め、昭和40年代半ばの盛岡の演劇状況は、盛岡演劇会・詩人部落の世代から、新しい世代への移行を予感させるものだった。
 しかし、こうした流れは県民会館が開館する昭和48年から50年代前半にかけて途絶える。劇団かいに続き、「「ぐるーぷ・de・あんべ」が昭和48年、盛岡小劇場が昭和50年、盛岡ミュージカルプロデュースが昭和51年、詩人部落が昭和53年以降公演活動の記録が見当たらなくなる。戦後演劇を担った世代も、その次の世代も、盛岡の演劇状況の主役から一斉に退場した。

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