2008年1月6日日曜日

馬場勝彦さんのこと 2005.2.22(NO29)

 前号では、昨年8月に亡くなった劇作家赤石俊一氏について記された(藤原正教執筆)。
 もう一人、盛岡の演劇界にとって忘れることのできない方が12月に亡くなられた。馬場勝彦氏である。馬場さんは福祉の人として知られるが、演劇活動にも理解が深い。自身が創設され、その後の活動の原点ともなった「世代にかける橋」の活動分野に演劇活動的な部分もあり、演劇人との付き合いは若い頃からあったようだ。あるいは、市立図書館時代の小森一民氏らの影響かもしれない。
 馬場さんが、演劇人とはじめて本格的に協働したのが、アメリカ・デフシアターの盛岡公演だった。デフシアターはニューヨークを拠点とするろう者の劇団で、1981年の国際障害者年の記念公演で来日し、盛岡公演の予定があったが県教委で事業採択されず、市民が実行委員会を結成し、公演を実現させ、大きな話題となった。演劇人も福祉活動の人も一緒に汗をかいた。馬場さんは実行委員長として日々増え続ける実行委員のまとめ役となった。公演は成功し、剰余金の一部で、移動照明器具を購入した。小さな非劇場空間で演劇活動をせざるをえなかった当時の盛岡の演劇活動に大きな助力ととなった。
 盛岡の街を文化的な街にしたいと願う馬場さんは、次に旧盛岡劇場の保存復活運動に力を入れた。保存が建物の構造上難しいとわかると、新盛岡劇場の建設運動を推進した。キャパ700人のホールと100~300人程度の実験ホールを持つ劇場づくりを演劇・ロック・ジャズ等の愛好者とともに提言した。実験ホールは理解を得るのに難渋した。残念ながら演劇人の中にも異論があった。実験ホールの基本構想こそが、平成の盛岡の小劇場演劇に大きな役割を果たしてきた盛劇タウンホールのフットプランである。演劇=新劇、音楽=クラッシック、美術=洋画という括りだけはない「アナザーカルチャー」(その他文化)といわれるものを育てることで、人が育ち、街が元気になる、という持論からも実験ホールの実現には力を入れた。
 盛岡の演劇人が初めて海外公演をおこなった平成7年の盛岡・マニラ交流親善演劇公演のきっかけも馬場さんのマニラ育英会事業だった。育英会事業に関わった盛合直人氏ら演劇人の呼びかけで、公演は実現した。「私、佐藤太郎と申します」(作・おきあんご、演出・藤原正教)は、一千人を越す観客で大入りだった。馬場さんはこのころ既に体調を崩され、同行はかなわなかった。
 ほかに、中三アウンホールの活用、プラザおでっての建設、啄木・賢治青春館の開設に力を尽くされた。また、中津川沿いを多くの美術館やホールがある文化観光ゾーンにしたいという願いは長年の夢であり、その活動の源流を市民基点とすることは、ゆるぎない信念だった

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