2008年1月6日日曜日

盛岡文士劇1 2003,8,6(NO19)

 この欄で、戦中の盛岡の演劇に理解を示した地検の長谷川検事正について記述したことがある。盛内政志さん(故人)や真木小苗さんとも親交があり、昭和二十年、統制下にもかかわらずつなぎ温泉に滞在中の園井恵子、丸山定夫(当時・官憲から要注意人物とされていた)らの劇団の練習を県公会堂で公開することを勧めた、その人である。
 その長谷川さんの戦後の消息が昭和二十七年の新聞に載っている。十二月二十一日の岩手日報だ。文士劇を間近に控えた鈴木彦次郎さん宛の手紙が紹介されている。
 鈴木彦次郎さんは小説家で、当時、県教育委員を務めていた。盛岡文士劇の創始者のひとりでもある。文士劇は昭和二十四年にはじまり、その年で四回目。毎年、満員の盛況復活して今年で九年目を迎える。当初は、復活第一回、復活第二回という具合に、復活という呼称を付していたが、今は省いている。
 戦後間もなく始まったかつての文士劇は、昭和二十四年にはじまり三十七年に幕を閉じた。はじまりは「盛岡市民が喜ぶようなものをやろう」と作家の鈴木彦次郎氏らが発起人になり、画家や名士、演劇人や芸者衆たちが加わった。歳末の盛岡の風物詩として大変な人気だった。幕を閉じた理由はなんだったろうか。盛岡劇場物語に文士劇の記録が詳しいがやめた理由は記されていないが、不入りが原因ではなさそうだ。マンネリだろうか。事務局や世話係の疲弊だろうか。
 復活文士劇も十年近くたち、市民の人気も高い。第一回の口上で桑島博盛岡市長は「文士劇を盛岡の冬の風物詩にしたい」と述べた。チケット発売日即日完売の人気は、他のイベントを圧している。高い人気は支えているのは、高橋克彦さんや畑中美耶子さんら常連の芸達者や時々の来盛ゲスト、陰で支える作家・演出家らスタッフの尽力である。しかし、長期の継続は組織なり運営に何かしかの疲労を蓄積させる。盛岡の風物詩として長く市民に愛され続けていくためにも、もう一度、文士劇を検証してみよう。
 復活文士劇は、平成七年、(財)地域創造の助成を得て「演劇の広場づくり事業」のメニューの一つとして始まった。
 それまで、IBC岩手放送の会長だった故河野逸平氏や斉藤五郎氏(前盛岡演劇協会長)が復活に向けての運動を試みていたが、なかなか関係者の理解が得られなかった。「県民会館」での実施で固執していたことと、どこが事務局を引き受けるかということが障害となっていた。
 多くの文士や演劇関係者は、大ホールでの文士劇に二の足を踏み、公会堂か盛岡劇場でなければ文士劇を復活させる意義を見いだせないと思った。県民会館の大ホールで復活しても、それは名士を利用した新しい集客イベントに過ぎず、盛岡の文化の復活ではないと思った。
 文士劇の出演者には出演料がない。手伝いのスタッフも半分はボランティアでの参加である。文士劇に参加することは「思い」という背景が必要なのである。
 「文士劇を盛岡劇場でどうか」と劇場職員を促したのが、当時、助役だった桑島市長だった。ここから全てが動き始めた。高橋克彦氏が賛意を示し、戦後の文士劇における鈴木彦次郎氏の役割である座長格となった。河野さんのIBCは赤字覚悟で舞台中継を引き受けた。斉藤五郎さんは事務局長となり、盛岡劇場が事務局を担当。演劇界の中堅リーダーたちが舞台をまとめた。
 内容は二部構成。一部が現代劇の盛岡弁芝居。アナウンサーに盛岡弁で芝居させるという試みが当たった。二部は懐かしい時代劇。はじめは「台詞を間違って笑われた」文士・名士も回を重ねる毎に上達した。進行、小道具、プロンプターなどは演劇人が支えた。

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