2008年1月6日日曜日

長谷川検事正のこと 2001,2,20(NO2)

 新世紀を迎えて間もない一月十二日の午後、盛岡劇場・河南公民館の開館十周年記念市民講座「もりおか温故知新」が劇場のメインホールで行われ、生憎の雪模様にかかわらず四百人近い市民が集まった。
 かつて生姜町(現南大通り一丁目)にあった映画館「紀年館」(大正四年開館)のオーナー、円子正氏製作による記録映画「岩手の輝き」の上映会である。サイレント映画で、解説者兼弁士として太田幸夫盛岡劇場館長が登壇。朴訥ではあるがユーモア交じりで誠実な口調は会場を和ませる。
 上映された大正十二年の盛岡の風景は、以外にモダンである。旧盛岡劇場の完成が大正二年、旧盛岡銀行(現岩手銀行中ノ橋支店)は明治四十四年、大正十一年には、県立図書館が落成している。この年は九月に関東大震災が起き、秋から冬にかけて、盛岡劇場では幡街芸妓演芸会や太田カルテットの音楽会などが震災被災者救援のために開催されている。この時期、盛岡劇場での演劇といえば、歌舞伎や新国劇の公演のほか、芸妓衆の演芸会の出し物や曾我廻家一座の喜劇興行が多い。花巻農学校教師の宮沢賢治は花巻から盛岡劇場に幾度となく通ったという。演劇好き、音楽好きの賢治に盛岡劇場は大きな影響を与えたに違いない。
 盛岡劇場が出来て十年、大正の十年も、今日、平成の十年も盛岡は舞台文化が華やかに輝いていた。前の号で共著者の藤原正教が「東北に行ったら必ず盛岡劇場に立ち寄れ」と大正時代の旧盛岡劇場を紹介したが、平成の現盛岡劇場もまた全国の演劇人やホール関係者に理想の芝居小屋として認知されている。 旧盛岡劇場が出来て今年で八十八年。盛岡の舞台文化の歴史は盛岡劇場とともにあった。先人の舞台に対する深い愛情と労苦に感謝するとともに、劇場に関わる職員の方々も、演劇人をはじめとする盛岡の舞台関係者もこうした思いや歴史を継承する努力を怠ってはなるまい。。 さて、先人の中で、演劇に深い思いを寄せた人物を一人紹介しよう。
 盛岡地方裁判所(当時は裁判所の中に検察部門があった)の検事正だった長谷川瀏である。長谷川は昭和十八年十二月から二十年四月まで盛岡に赴任しており、その後、最高検検事になっている。明治二十四年八月の生まれだから、盛岡在住当時は五十歳半ば近くだった。
 岩手県芸術文化協会の盛内政志会長は、劇団盛岡演劇会の創始者の一人で、戦後間もなく、岩手県芸術祭や盛岡文士劇の立ち上げに尽力したことで知られているが、長谷川検事正について、こう語っている。
 「検事正さんは、戦前は閣下と呼ばれていた。県内で閣下と呼ばれる人は、裁判官や軍隊の少将以上の方など、ほんの一握りの人だけで、当時二十代の我々からすると、とても偉い人だった。その偉い人が、当時、特高などにも睨まれていた丸山定夫や園井恵子など苦楽隊(後の演劇慰問団桜隊=広島の原爆で被爆)がつなぎ温泉の愛真館に見を寄せていたとき、県公会堂でのお忍びの公開稽古の企画をけしかけたんですよ」
(以降の長谷川検事正の話は次号に続く)

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