2008年1月6日日曜日

戦時下の盛岡の演劇状況(NO5)

 岩手県芸術文化協会名誉会長長の盛内政志氏(岩手県演劇協会顧問。以下本文中、敬称略)が六月十一日、八十一歳で亡くなった。岩手・盛岡の近代演劇の幕開け時代を築いた演劇人の一人である。
 この「いわて演劇通史」の企画の立上げに際し、本誌編集委員会が「幕開け」の当時を知る三名の方による座談会を催した。盛内、沢野耕一郎、真木小苗である。私も聞き役として出席した。演劇通史2,3で述べた園井恵子や長谷川検事、翼賛文化報国会のことなどが、この会で語られた。昨年の六月十日の夜ことである。盛内は、ちょうどその一年後に亡くなったことになる。ここでは、盛内の談話を中心に、盛岡の戦中の演劇事情を振返ってみたい。
 盛内は、昭和十八年九月、明治大学を卒業、盛岡中劇に入社。文化報国会演劇部の活動に参加するのは、旧盛岡劇場で行われた第三回公演「太平洋の風」(八木隆一郎作、盛内政志演出)からだ。もっとも座談会での盛内談によると「学生時代から帰省の際、芝居を見ていて、陰ながらバックアップしていた」という。第一回公演は七月二十五日(貝殻島、村の飛行兵)だから盛内は夏休みの帰省で観劇している。昭和十九年から演劇活動に参加した盛内の役割は、チケットを捌くことや演出が中心。戦後間もない頃は二十代の若さで、盛岡演劇会の活動や、岩手芸術祭・盛岡文士劇の開催などで、主に世話人代表的な役割を務めている。
 戦中の演劇の稽古場事情はどうだったろうか。「大勢の人が集まってがやがや騒ぐ、大声をあげて怒鳴り散らすようなのに提供するところはなかったので、小さくなって借りて歩いた」(盛内談)当時、岩手文化協会の細川幹事長(公会堂多賀)が経営していた「味のデパート」(旧陸中銀行)や細川宅の離れが主な稽古場だった。盛内は学生時代から岩手文化協会の幹事をやっていた。盛岡劇場物語の年譜に「昭和十七年七月十二日、岩手公園で岩手文化協会第一回野外劇大会」とある。盛内は「これは演劇運動とは呼べない」と明快。ちなみ細川幹事長は、長岡輝子と幼稚園の同級生で、昭和十八年三月の文学座公演(盛岡劇場)のため奔走している。長岡輝子のほか、杉村春子、中村伸郎、森雅之らが出演している。
 報国会演劇部は、盛岡放送局の放送劇研究会を中心に芝居好きの仲間が一緒になって結成されるが、その中核にいたのが放送局の職員、茂木亮戒。報国会演劇部の初代部長である。旗あげ公演の「村の飛行兵」を演出している。真木小苗はこれが初舞台。茂木は昭和十九年に釧路に転勤。その後、盛内や放送劇研究会出身の沢野らが演劇部の中心になる。ちなみに、戦中の芝居の舞台装置は厨川の佐藤徳松。豊かな農家の出身で、報国会演劇部の殆どの舞台装置を担当した。
 戦争も終盤となってきた昭和二十年、盛内は、東京から珍しい疎開客を迎える。三百年以上の歴史を持つ糸あやつり人形芝居の「結城座」一家である。結城座は、中劇で映画の幕間アトラクションに出演していたこともあり、中劇を頼って、まず人形を盛岡に疎開させていた。
 一家は当初、仙台に疎開する予定で東北線の列車に乗り込んだ。しかし、仙台駅でどうにも胸騒ぎを覚え、当主の妻、竹本素京の提案で盛岡まで足を伸ばした。

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