2008年1月6日日曜日

長谷川検事正のこと 2001,4,20(NO3)

 盛岡の近代演劇の幕開けは、昭和十八年七月二十五日に盛岡劇場で行われた県翼賛文化報告会演劇部の公演「村の飛行兵」「貝殻島」であった(盛内政志談)と言われている。その「村の飛行兵」で初舞台を踏んだ現在最高齢の女優の真木小苗は「当時は翼賛会でなければ芝居はできなかった」と語っていたが、前号で紹介した長谷川検事正は、この時期盛岡に着任していない。演劇や文化に理解があった長谷川は盛岡でどんな演劇に出会ったのだろうか。「とてもよくしてもらった」という当時初舞台を踏んだばかりの真木小苗に長谷川の印象を聞いた。
 「きりっとしたお洒落な方で、随分年が離れていたから、かなりの叔父さんという印象だけど、一度、芝居を見に盛岡劇場に連れて行ってもらったことがあって、 二人で一階の桟敷に座っていると、二階から検事正に芸者さんが声を掛け、検事正は手を振って応えるんです。もてたんでしょうね。それから、転勤で盛岡を離れるとき、演劇仲間たちから託されてお別れの記念品かなにか贈り物を持って行った記憶があります」(真木談)
 真木と放送劇団の頃から一緒に芝居をやっていた沢野耕一郎は更に検事正についてこう語っている。「長谷川さんは芝居が好きな人だった。ご自分でも芝居を書く方でね。ほら、裁判劇というやつ、そういう芝居の原作を書いていたんだ」
 長谷川検事正が盛岡を離れるのが昭和二十年四月。長谷川の人事異動と関係があるどうかわかないが、その四月一日に演劇部は翼賛文化報国会会から脱退している。沢野は三月に出征しているのでその事情はわからない。しかし、翼賛会に入らないと芝居が出来ない状況ではあったはずだ。その事情を盛内政志は次ぎのように語っている。「戦争に利用されたくないということです。勇気が要りました。大ぴらに芝居ができなるかもしれないと判っていましたから。それでも脱退して、盛岡演劇会を正式に結成したんです」
 記録では、盛岡劇場で最後に演劇が行われたのが昭和十九年十一月十二日、文化報国会の「太平洋の風」。「太平洋の風」は好評で、二週間後の二十六日、県公会堂で再演、翌月十日、陸軍病院でも上演している。その後、昭和二十年一杯、演劇公演の記録は見当たらない。
 前号で記した長谷川検事正がけしかけた「公会堂での苦楽隊・秘密の公開稽古」が行われたのが二十年の一月。園井恵子ら苦楽隊(後の演劇慰問団桜隊)は、東京での演劇活動がままならず園井が親戚づきあいしていたつなぎ温泉の愛真館を宿に三好十郎作の「獅子」の稽古に励んでいた。「 暗幕張った真っ暗なところで、獅子の稽古を見させていただいた。丸山定夫は詩を二編朗読してくれた」(盛内政志談)公会堂は警察署の真前にある。あたりを憚りながら公会堂に集まった演劇青年たちは目を輝かせながら丸山定夫や園井恵子らの一挙一動に演劇への夢を馳せていたに違いない。盛岡演劇会が正式に第一回公演を行うのは、文化報国会脱会から一年七ヵ月後の昭和二十一年十一月一日であった。

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