2008年1月6日日曜日

宮沢賢治歩く 2002.5.21(NO11)

 五月三日、盛岡劇場から花巻まで歩いた。およそ四十㌔、午前七時に出発し、午後四時半に花巻市文化会館隣の「ぎんどろ公園」(宮沢賢治が教師をしていた旧花巻農学校跡地)に着いた。
かつて、宮沢賢治は盛岡劇場で観劇後、花巻まで歩いて帰ったそうだ。赤い風の元気な女優に「盛岡劇場から花巻まで歩こう」と誘われた時、宮沢賢治が歩いたコースを辿るのも面白いと思った。本論からはいささか外れるが、ちょっと賢治のことを振り返ってみたい。記録によると、賢治は二円を懐中に盛岡に出かけた。大正十二年五月初旬。入場料が一円、夕食代が五十銭、汽車の片道分が五十銭と、帰りの汽車賃を持っていなかったという。賢治全集ではこの時見た芝居は、東京大歌舞伎(前月末、北上で上演していることから)ではないか、と推測しているが、この時期、盛岡劇場では「日本少女歌劇団」公演(五月一日~六日)が行われている。
 賢治は夜十時、盛岡劇場を発ち、翌朝七時に花巻農学校に着いたそうだ。岩手山登山で鍛えた健脚だから40㌔程度の行脚はそれほど特別なことではなかったとは思うが、深夜である。自動車のない時代だから、見えるのは「月夜の電信柱」や列車の「シグナル」などか・・(まるで賢治作品だ)。国道沿いの松並木は賢治に何を語りかけたのだろうか。
 賢治は友人と二人で歩いたそうだが、平成の私たちは全部で七名、うち二名が山沿いの別コースで花巻に向い、一名が石鳥谷から合流した。深夜ではなく日中に歩いた。私たちは岩手山登山で鍛えた健脚の賢治ではない。気を張って歩かないと挫折しそうになる。
 大正十四年、県の公会堂建設費捻出のため、国道の松並木を切ろうという話しが出た時、賢治は反対した。今その松並木はほとんど姿を消している。ひっきりなしに行き交う車に閉口する。賢治と同じ夜に歩いても月明かりより車のヘッドライトが気になっただろう。
 賢治はこの時以外にも長距離を歩いている。前々月の三月、一関までハイキングし歌舞伎を見ている。また、同じ年の八月十二日、北海道、樺太旅行からの帰りに盛岡から花巻まで歩いている。この時は本当にお金がなくなってのことだったらしい。しかし、前年十一月に最愛の妹トシが亡くなっている。傷心の賢治は何かを求めていたのではなかろうか。この年、賢治は「シグナルとシグナレス」「精神歌」「植物医師」「オホーツク挽歌」「青森挽歌」などを発表している。
 同じ年、関東大震災があり、東京の芝居小屋も大きな被害を受け、地方巡業が多くなった。賢治の観劇機会も多くなったに違いない。しかし、この頃から、演劇統制も強まり(平成十四年学校演劇禁止令)、演劇が自由を取り戻すのは、東京が二度目の廃墟を経験する昭和二十年まで待たねばならなかった。

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