2008年1月6日日曜日

戦中から戦後の盛岡の演劇(NO7)

 秋は芸術の秋。今年で五十四回目を迎える岩手芸術祭は演劇、美術、音楽、文学など芸術文化全般にわたる三十七部門の参加で盛岡を中心に県内で広く開催され、秋の風物詩の一つとして親しまれている。
 この岩手芸術祭、草創期の運営に奔走した一人に故盛内政志さんがいる。戦争末期から中断していた演劇公演が復活したのが、昭和二十一年秋。盛内政志さんらの盛岡演劇会による「ドモ又の死」などが行われたことは前号に記されている。戦後、昭和二十二年までの間に「盛岡演劇会をはじめ三つの劇団が活動を開始しているし、昭和二十三年になると劇団数は五つ」(盛内政志談)。プロ劇団を目指した表現座が二十二年、詩人部落が二十三年に公演を行っている。職場演劇や学生劇団も続々と誕生している。
 さて、芸術祭だが、国(文部省)の芸術祭は昭和二十一年に始まっている。会場は東京の帝国劇場など。翌年には岩手県で始まったわけだから、極めて早い。全国では栃木県に次いで二番目の開催だ。
 盛内さんは芸術祭開催の機運を次のように語っている。「敗戦をを境にして、それまで言いたいことも言えず小さくなっていた芸術家や自由を愛する人たちが時々県立図書館(当時の館長・鈴木彦次郎)に集まって話し合いをしてたんです。これからの日本は我々がどうにかしなければならない。私たちの時代だ、と気炎をあげていた。それが二十一年の暮れ頃、誰言うこともなく、皆で組んで芸術祭をやろうということになったんです」(岩手芸術祭五十回記念座談会から)
 戦中は大政翼賛会文化報国会としての活動以外は規制され、音楽にいたっては昭和十八年の歌舞音曲停止令によって、慰問等の活動以外は事実上停止の状況だった。盛内さんは「敗戦以前の二十年四月一日に、文化報国会を脱退、すぐに公演が出来るわけもなく、密かに勉強しているうちに敗戦になった・・・美術、文化などにおいても戦中から小さなグループがあって、制約された中だが、゛そこむし゛に活動していたんです」(同座談会)゛そこむし゛とは「黙々」という意味に近いが、もっと底しぶとくとかジックリと秘めた思いをこめながら、といったニュアンスが含まれる。だからこそ、戦後、束縛から解放され、一斉に表現の世界に人々は引込まれ、その思いが芸術祭開催の情熱につながっていったに違いない。当時、二十代の盛内青年は、鈴木彦次郎、深沢省三橋本八百二といった先輩方とともに芸術祭開催に奔走した。
 第一回芸術祭が終わってまもなく新岩手日報(当時)が参加各分野の代表者格を集めて座談会を開いている。これにも盛内さんが参加している。
 席上、画家の橋本八百二さんは「芸術は、産業経済あらゆる部面に日常生活と切っても切れないものであることを知らしめなければ」同じく深沢省三さんは「芸術祭は単なる催し物ではない。芸術と市民を結び付ける企てだ」と述べている。盛内さんは「劇団にテーマを与えて公演させたら」という新聞社の提言に「テーマというより、いいものを作るため各劇団から優秀人を集めて一つの舞台に」といわゆるプロデュース公演を模索した答えをしている。興味深い。

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