2008年1月6日日曜日

盛岡文士劇2 2003.10.28(NO21)

 現在、十一月末は恒例の文士劇だが、かつての文士劇は概ね十二月の下旬、年末に行われていた。当時の新聞は「歳末吉例文士劇」とかいう見出しで紹介している。
 人気絶頂の文士劇は、稽古場風景も社会面で記事となることがあった。
 「人気高潮の文士劇・出そろった新顔名優陣・南部さんすっきりした海軍士官」「メイ演技に湧き返る・同情月間『文士劇』に人気集中」(以上昭和二六年「寒夜に汗する歳末サービス・文士劇おけい古高潮」「文士劇の熱演・けんらんの舞台に沸く・同情週間のフィナーレ」(昭和二八年)などの見出しがその人気の高さを伝えている。
 そうした記事の中に、県外在住者からの便りを伝えた面白い記事がある。昭和二七年十二月二十一日、文士劇当日の岩手日報だ。
 「話題を咲かす文士劇シーズン」という飾り見出しの下に「検事正から舞台俳優に・長谷川氏のプロマイド届く」と見出しが続く。戦中の盛岡地検の検事正で、盛内政志さんら当時の盛岡の演劇人の活動を支えた長谷川検事正が検事をやめて俳優になったという記事である。
 文士劇の稽古に励む鈴木彦次郎氏のもとに、旧友の長谷川氏から自身の役者姿のプロマイドが添えられた手紙が届き、同氏を知る人の間で話題となった
 私は検事をやめ、その後一時公証人になりましたが、それもすぐやめて目下同封写真のように旅役者になってミーハー族のかっさいをあびています。(中略)舞台の味は貴下も文士劇で十分たんのうされていると存じますがナカナカいいものですね。演出家よりもそして脚本家よりも、そして検事正よりも・・・(後略)」と手紙に綴られていたという。劇団を組織し、自作自演の芝居をもって全国巡業しているというからすごい。
 長谷川氏のことは、一昨年、この欄で紹介したが、盛岡赴任中も演劇活動の支援ほか、統制下にかかわらず、官憲ににらまれていた丸山定夫や園井恵子ら苦楽座(後の桜隊)の稽古鑑賞会開催をすすめた。氏は学生時代から演劇に興味を持ち、思想関係の検事であったことから、演劇界の思想統制で数多くの演劇人と関係し、自らも戯曲に筆を染めていた。
 手紙をもらった鈴木彦次郎氏も驚いた。「いやあ、びっくりしましたネ。芝居好きな人だとは思っていましたが役者になるとはネ。しかしあの人らしい。人格者でいかめしいところは一つもない親しめる人でした。夫人も常磐津の名取りでした」と記事は伝えている。
 長谷川氏がいつまで芝居をしたか定かではないが、鈴木氏をはじめ盛岡の芝居好きは昭和三七年まで文士劇を続ける。
 そういえば平成七年に復活した文士劇、今年の演目は。その鈴木氏原作の「常磐津林中」。林中を演じるのが作家の高橋克彦氏。高橋氏もまた大の芝居好きで、鈴木氏のあとを継ぎ、現在の文士劇を牽引する。

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