2008年1月6日日曜日

60年代の盛岡の演劇1 2004.5.31(NO25)

 もりげき八時の芝居小屋」の企画、年代演劇シリーズがはじまった。
 第一弾が別役実の「或る話」、月の第二弾が唐十郎の「腰巻お仙」で、第三弾が9月(作品未定)に行われる。60年代の日本の現代演劇は、前半、新劇運動にかげりが見え始め、半ば過ぎからは変革への新しい息吹がものすごい勢いで噴出し始める。
 その時期、盛岡の演劇事情はどうだったろうか。
 まず、60年代前半(昭和35年~40年頃)頃を見てみよう。
 「盛岡劇場物語」(平成年刊)の年譜によると60年代の前半は、岩手芸術祭公演と文士劇公演以外の演劇公演記録はあまり見られない。
 しかし、県内の1960年、61年は岩手日報の紙上は、青年演劇の話題で賑わった。紙上では、ぶどう座主宰の川村光夫(劇作家)や詩人部落代表(当時)の小林和夫(劇作家)、教員、青年会の当事者等がかなりのスペースを割いて青年演劇のあり方を論じている。それだけ、青年演劇が高揚していた時期であったろう。
 1952年に全国大会で最優秀賞を受賞した湯田村青年会(岩手ぶどう座の前身)活躍を大きな契機として、六一年には県青年大会参加グループ数のピークを迎えている。
 61年の全国大会では江釣子青年会が全国大会で最優秀賞を受賞している。
 なお、川村光夫が率いる「ぶどう座」は61年に専用のけいこ場を落成させている。村内外から700人が募金に協力し、およそ80万円の浄財が集まったという。
 一方、盛岡では、戦後演劇の一端を支えていた職場演劇はすっかり影を潜め、一般の劇団の活動も停滞していた。
 劇団詩人部落は、芸術祭以外の活動はあまり活発でなく、老舗の盛岡演劇会の活動も低迷していた。新しい集団では62年に盛岡小劇場が誕生している。
 また、歳末恒例の盛岡文士劇も62年を最後に公演が中断される。小林和夫は危機感から盛岡を中心とした劇団に声をかけて代表者懇談会を開催しているが、その成果は芳しいものではなかったようだ。
 農村部の演劇活動の下支えが青年演劇なら、都市部の演劇は職場演劇や放送劇との協働によって支えられていたのではなかったろうか。職場演劇が衰退し、60年代はテレビの時代に突入、ラジオ放送劇も茶の間の話題から遠のく。
 当時の盛岡の演劇事情はどうだったのだろうか。はたして中央の新劇運動の翳りとは無縁だったのだろうか。
 このような状況下、岩手大学演劇部に新しい動きが見え始まる。アンチ・テアトルを標榜、斬新な舞台づくりに挑戦して実験的手法が注目された。
 61年にはイヲネスコの不条理劇に挑戦している。

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