2008年1月6日日曜日

60年代の盛岡の演劇2 2004.10.12(NO27)

 「もりげき八時の芝居小屋」年代演劇シリーズが終わった。別役実の「或る話」(5月)、唐十郎の「腰巻お仙」(8月)、マリオ・フラッティの「金曜のベンチ」(9月)の三作品はそれぞれ特色のある舞台だった。あらためて、当時の変革への新しい息吹と豊かな演劇性に感心した。方法論や技術論、演劇の場に偏らない自由な発想は、今こそ、学ぶ必要があるかもしれない。
 このコーナーの趣旨からは少々脱線するが、60年代以降、随分、多くの演劇が生まれ、伝統演劇と現代演劇、東京の演劇と地域演劇の距離も縮まってきている。
 60年代にかけての劇場難は遠い過去だ。盛岡でも例外ではない。しかし、今、盛岡の演劇状況はどうだろうか。93年の国民文化祭から96年日本劇作家大会そしてマリオスの市民文化ホール落成(98年)まで、盛岡の演劇は一つの時代を築いていた。全国に「演劇の広場づくり」と「演劇の街盛岡」の名が広まり、行政等の視察が相次いだ。
 「演劇」が盛岡のブランドの一つとして観光パンフに掲載された。
 演劇の街に翳りが見え始めたのは99年頃からだろうか。不況という一因も否めないが、演劇人同士の協働やホールとの協働の場が狭まり、一般市民が演劇活動に参加し得る機会が少なくなってきた。ここは、ことの是非と原因を論じる場ではないので省くが、これまで歩んできた道が厚い雲に覆われ視界がひらけない。
 変革の時代を迎える前の演劇状況も同様ではなかったかと想像してしまう。「貧困の演劇」が新たな地平を切りひらくともいわれる。経済の貧困、技術の貧困、経験の貧困、そして環境の貧困。これらの貧困がバネとなって自由で新たな演劇とその「場が生まれたに違いない。
 さて、話を60年代盛岡の演劇状況に戻そう。
 岩手育会館が65年7月落成、講演会仕様のホールだが、舞台公演も工夫次第では可能で、会場難の盛岡の舞台芸術にとっては朗報だった。
 しかし、68年10月25日、芸術座公演を最後に谷村文化センター(旧盛岡劇場)はホールの幕を下ろす。翌月には専属大道具師だった斎藤勝州(斎藤五郎前盛岡演劇協会長の父)が亡くなる。
 劇団活動は、「劇団かい」(65年)、「盛岡小劇場」(66年)「ぐるーぷ・de・あんべ」(68年)が次々と旗揚げ、69年にはプロデュース公演で高い質の演劇活動を目指す盛岡ミュージカルプロデュースが誕生した。
 劇団かいの創設メンバーであった阿部正樹氏(IBC岩手放送)は、当時のことを次のように語っている。
 「旧態然とした盛岡の演劇に新しい風を送りたかった。イヨネスコや安部公房など当時の新しい演劇を積極的に取り上げたのはそうした理由からだ」(盛岡劇場物語より)

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