2010年7月12日月曜日

いわて演劇通史40

盛岡の演劇人らによって秋浜悟史さんの追悼企画がすすんでいる。公演、追悼展示、座談会等々。しかし、大先輩、秋浜さんのことを私たちはあまり知らない。
先日、日本演出者協会から「戦後演劇=演出家の仕事②」という発刊されたばかりの書籍が送られてきた。一昨年に「六〇年代・アングラ・演劇革命=演出家の仕事」が発刊されているが、今度送られてきた本は、六十年代までを扱ったもので、前著と同じく日本演出家協会編である。
冒頭、編者を代表して、かつて秋浜さんと一緒に舞台を創ってきた「ふじたあさや」氏が次のように記している。
「アングラが観客を含めた、既存の演劇や社会への〈運動〉、切実で熱烈な〈異議申し立て〉(前著の前書き)であったなら、〈意義申し立て〉をされた側を問題にしなければなりません」
この前著と今度の本の両方に秋浜さんが登場する。
秋浜さんは、早稲田大学の自由舞台で演劇を行い、岩波映画からNHK俳優養成所出身者らが中心となった三十人会に参加した。一九六二年である。
今度の本では、早稲田の自由舞台、そして三十人会で一緒だった女優の伊藤牧子さんが、秋浜さんについて書いている。伊藤さんは秋浜さんの「おもてぎり」「鎮魂歌抹殺」の舞台で第六回紀伊国屋演劇賞個人賞を受賞している。
三十人会当時の秋浜さんのことを伊藤さんは次のように述べている。
「六三年には『結婚の申し込み』、チエホフが卒論のハマさん(秋浜さん)の自家薬籠中の物、薬籠が大爆発したようなアクロティックな舞台だった。『身体反応の火花の速射砲のような連打』『偶然性がもつ戦闘的反発力の組織化』などの刺激的フレーズに役者たちはワクワクと『想像力のバネで飛翔』させられた」
充分にアンダーグランドの言語である。演劇が大きく変わろうとしているその時代に秋浜さんは確かにいた。
東京時代の秋浜さんの多くの本には「南部弁」(伊藤さん)が使用されている。
「標準語は、それを逆手に使う場合以外は使いたくない。幼児語や地方語の方に興味がある」という秋浜さんは、「口うつしに、情熱的に、馬鹿丁寧に、あなたの国のリズムを、響きを、色を、重さを、私たち俳優の肉体に注ぎこみ、うえつけようとします」(伊藤牧子)
そして三十人会最後の舞台となった「袴垂れはどこだ」(福田善之作、秋浜悟史演出)では、「秋浜翻訳で、袴垂れ党のみんなは南部弁を操った」のである。
三十五年前、伊藤さんが帰省中の秋浜さんに充てた手紙の一節が載っていた。「・・どんなことがあってもふるさとの地だけは裏切れないのは偉大です。『死ぬならば、ふるさとへ行きて死なむと思う』と啄木に血を吐かせた渋民は、あなたにもそう強いるのですか・・」
私たちは、秋浜さんのことをもっと知らなくてはと思う。

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