2010年7月12日月曜日

いわて演劇通史39

盛岡出身の演出家・宮永雄平さんが亡くなった。五十八歳の若さで逝った。平成十九年四月三日午後五時二十七分、自身の脚本・演出する舞台「桂春団冶」(新橋演舞場、藤山直美・沢田研二主演)の初日の幕が降りて間もなく息を引き取った。全身を癌が蝕み、壮烈な痛みと戦いながら薬で朦朧とするなかでも、病床で舞台を気遣っていたという。
宮永さんは盛岡一高から中央大学にすすんだ。高校時代から演劇をはじめた。盛岡一高の演劇仲間に盛岡市の池田副市長がいるが、葬儀では歴々の名士にさきがけて最初に弔電が披露された。一緒に演劇をしたこと、大学時代、高円寺で一緒に飲み明かしたことなどを懐かしむ暖かい弔電だった。また、高校時代には盛岡の「劇団かい」(阿部正樹ら)の公演も手伝っている。
大学を中途にしてプロの演劇の世界に入った宮永さんはやがて旧ソ連に文化庁の派遣で一年間留学、演出術を学び、帰国後は劇団円の演出家として活躍した後、フリーになる。
若い頃は、日劇ミュージックホールの演出も手がけた。黒テントの佐藤信ら、当時新進の演出家として名が知られている幾人かがミュージックホールの演出をしている。
プロになった宮永さん演出の舞台公演がはじめて来盛したのは昭和五十五年、三蛙房の「あひるの靴」(水上勉)の公演だった。一般公演のほか、盛岡一高も団体鑑賞を行った。当時、宮永さんは木村光一に演出助手として師事し、「あひるの靴」が「演出家として一本立ち」(水上勉)の公演だった。
その後、宮永さんは商業演劇の演出を数多く手がけるが、郷里のことはいつでも気にかけてくれていた。
盛岡劇場が誕生し「高校生のための舞台技術講座」をはじめる際には、総合指導を引き受けてくれた。照明・音響・装置などの各部門が演出と役者を介在させてどう成立していくかを懇切丁寧に指導された。また国民文化祭いわて演劇祭では盛岡劇場の参加公演で演出を担当した。これまでプロの演出家による指導を受けたことがなかった盛岡の演劇人に宮永さんは容赦がなかった。自己流の演出・演技をしていた私たち盛岡の演劇人にとって宮永さんの指導は刺激的だった。少々耳に痛いことも言われたが、当たっているから文句は言えない。
宮永さんは言う「自己満足の、仲間内だけの芝居をやっていては演劇の街にはならない。盛岡の演劇がさかんと言っても、質の高いものが生まれないかぎり本当にさかんとは言えない」
山崎努一人芝居「ダミアン神父」(演出、宮永雄平)の岩手県公演も懐かしい。岩手日報と盛岡劇場が提携し、盛岡劇場のほか一戸、東和などでも公演を行った。舞台の構造が全く違うホールでの公演を宮永さんはいとも簡単に対処した。しかし、妥協を許さない。その場での最善に向けて努力を怠らない。厳しい人だったが思いの深い人だった。

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