2010年7月12日月曜日

いわて演劇通史38

平成十九年の岩手芸術祭は第六十回目の記念すべき年にあたる。昭和二十二年、戦後の復興もままならぬなか、全国でも栃木県と並び早期に開催された地方芸術祭という歴史をもち、以来、かかさず開催(平成五年は国民文化祭が岩手県で開催されたため休止)されてきた。
その芸術祭の県負担金が大きく削減される。当初、県負担分の三十%が減額されるという案が、県芸術文化協会に前ぶれもなく示され、加盟団体は反発した。
結果的に「各部門の助成額については前年どおり」だが、国民文化祭の成果継承事業として平成六年から続いてきた「開幕フェスティバルの県負担額はゼロ」とし、県や市町村等が出資している「県文化振興基金」が肩代わりするということで落ち着いた。芸術祭参加団体としては、形がどうであれ昨年並みの財源が確保されたので一安心だが、平成二十年以降も同額が保障されたわけではない。厳しい地方財政は、行財政改革プログラムの中で聖域なき見直しを余儀なくしている。将来に向けて文化団体自身も主体的に芸術祭のあり方を検討すべき時期なのかもしれない。
では、そもそも芸術祭はどうして生まれ、誰が財源を確保し、どう運営されてきたのだろうか。
国の芸術祭が始まったのが昭和二十一年。文部省は各都道府県に対しても地方芸術祭の開催を呼びかけた。それを受ける形で、岩手県が主導したのが県芸術祭の出発である。第一回目は運営資金が県費から支出され「極めて官制的なにおいのつよい形式」(盛内政志)だったという。
昭和四十九年の第二十八回目からは各部門代表者による実行委員会方式の運営が固まった。岩手県芸術文化協会の発足や岩手県演劇団体連絡協議会(現岩手県演劇協会)の組織づくりが始まったのもこの頃である。
この当時から、盛岡開催を中心とする芸術祭に県内各都市での開催を求める声も高まってきた。
演劇部門では昭和四十年代に入って県内の演劇団体の交流がすすみ、昭和四十四年の第二十三回芸術祭ではじめて盛岡以外での公演も芸術祭に組み込み、第二十八回から県内五地区での開催を定着させた。
この間、様々に形での演劇部門公演が検討されている。
ひとつは、演劇発表会形式で、高校演劇発表会のように同一会場で県内の各劇団が時間を決めて公演を行おうというもの。これは、多様化する演劇に対応できないという理由で見送られている。
もうひとつは二~三日の会期の演劇祭で、同一都市複数会場で四~五劇団の公演を行うもの。これは現実的に盛岡以外で複数会場を探すのがつらい、開催都市の集客リスクが大きいという理由で実現されなかった。
県内五会場方式となってから三十年以上経過した。そろそろ新たな展開を検討することも必要だろう。

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