2010年7月12日月曜日

いわて演劇通史43

盛岡演劇協会の元会長、斎藤五郎氏が、平成十九年度の盛岡市勢功労者賞を受賞した。
受賞理由は、街もりおかの編集など広範な盛岡の魅力の掘り起こしを主とし、映画・演劇文化の振興への尽力も併せた功績で、盛岡の演劇関係者としては故盛内政志についで二人目の受賞になる。
勿論、演劇における最大の功績は、盛岡文士劇の復活初期の尽力だろう。旧文士劇には父親の斎藤勝州氏が大道具師として関わり、復活文士劇では、五郎氏が実行委員会事務局長、甥の渉氏が大道具、長男の作家、純氏が役者として参加した。斎藤家と文士劇の関係は深い。
さて、その斎藤氏の受賞を祝う会の準備会で、参加者の一人から、この演劇通史に時々は裏話も載せて欲しい、という声が出た。これまでの記事の多くは、筆者が新聞記事やパンフレット等の資料、関係者の談話などから記述したもので、「実はさあ・・」という裏話は極力避けてきた。
 しかし、連載の回が進み、近頃は今日的な話題から過去を遡ることも多くなってきたことと、私の所属する劇団赤い風が今年、結成三十年目を迎えることで、この辺で筆者自身の体験も、徐々にではあるが記述していきたいと思うようになってきた。あるいは、この一~二年の身近な演劇関係者の相次ぐ訃報のせいかもしれない。
 独り善がりにならぬように注意しながら「独り言」も交えていきたい。
劇団赤い風の結成は、一九七八年年九月で、旗揚げ公演が翌年の四月である。
初めての練習会場は八幡町の「伴天連茶屋」の二階。稽古らしき稽古にはならず、発声練習の後は、ただ語り合っていたような記憶がある。劇団の名前は桜山神社通りの「喫茶なじゃ」に集まって決めた。当初「青い風」が有力だったが、誰かが「青」は「オカマっぽい」、「赤」は劇的だ、ということで「赤い風」になった。「風」は「沈滞した盛岡の演劇界に新しい風をおこそう」という気持ちをこめたものだった。
当時、盛岡市内で定期的に活動している劇団はミュージカルを中心とした「九月とアウラー」、ストレートプレイの「亜季」と「舞酔」の三劇団。詩人部落は休眠状態だった。書き手(戯曲家)が不足しており、赤石俊一氏がアウラーやプロデュース公演に執筆する以外は、既成台本に頼っているのが実情だった。「完成度は度外視しても構わないからオリジナル台本で」というのが劇団づくりの基本的な考え方で、既に「台本の用意がある」という「あきあんご」が創立メンバーに加わった。
創立メンバーの中で、作・演出を担当するおきあんご以外は、全員、役者名に「色」をつけようという話になった。代表が黒沢総司、副代表の私は青田裕次郎、女優は緑が丘貝、白鳥比紗子。そして、事情により初回公演に参加できずに名前に「色」をつけ損なったのは、当時、若手で市内随一の存在力を見せていたヨシダマサコである。
劇団結成前、おきあんご以外の者は、一時、舞酔に在籍していたが、舞酔の代表との演劇思想の違いから脱退していた。
ちなみに、赤い風グループ脱退の前後の舞酔脱退者数名は、九月とアウラーに移って、リーダー格として活躍している。

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