2010年7月12日月曜日

いわて演劇通史51

昭和五十二年の岩手の演劇は「低迷と試行の演劇界に新旧交代が目立つ」と総括される。 
 待望の岩手県民会館が誕生(昭和四十八年)したというのに、昭和四十年代をリードしていた「劇団かい」も「ぐるーぷ・DE・あんべ」も既になく、老舗劇団「詩人部落」は昭和五十年十一月の越前竹人形(県民会館)以来、公演を行う力を失い、盛岡ミュージカルプロデュースも翌年十月の公演をもって解散していた。
 当時、私は盛岡での活動の場を求めて、詩人部落の方々にもお会いしたことがある。「今は、公演の予定なし」との話に参加をためらった。その後、詩人部落は「多賀神楽」の復興に力を注ぐが、現代演劇の現場からは姿を消す。
 新しい劇団では、前号に記述した「舞酔」のほか、「亜季」「九月とアウラー」が精力的な活動を展開していた。この年、舞酔は唐十郎の作品「少女仮面」(教育会館・十一月)、亜季はヘレンケラー物語の「奇蹟の人」(十二月・県民会館)を上演している。新しい流れの作品に挑戦する舞酔と前回の「放浪記」に次いで商業演劇や新劇の名舞台を再現しようとする亜季の活動が注目されていた。
 岩手日報の記事(十二月二十三日付け岩手日報夕刊)では「県民会館はじめ県内各地の文化施設の最近の充実ぶりは、舞台芸術に上演の場として大きな刺激なっている。演劇界では特に新旧の交代が目立ち、新興劇団の活躍が特筆される。・・・十数年低迷と試行を繰り返してきた演劇界にも新しい胎動の芽が少しずつ育っている」として、「舞酔」と「亜季」をその新しい芽とし、その若干先輩格になる「九月とアウラー」の活動の充実ぶりを伝えている。
  「演劇集団九月とアウラー」は「劇団かい」や「盛岡ミュージカルプロデュース」に参加していた当時二十代前半の若い演劇人が集まって結成された。旗上げ公演は県公会堂。昭和四十七年七月、作品は詩人・大岡信の唯一の戯曲「あだしの」(演出・浅沼久)。宮川康一(初代代表)や熊谷峰男、小川みち子らが出演している。翌年十一月は、別役実の作品「スパイものがたり」を教育会館で上演している。
 昭和五十二年のアウラーは、井上ひさし作の「それからのブンとフン」を教育会館で上演する。この公演の評を盛岡ミュージカルプロデュースで活躍した劇作家の赤石俊一(故人)が岩手日報紙上に寄せている。
 「旗上げ公演では、不均衡な起爆力で観客を包みこみ、したたかな個性を感じさせた。その後、高度な均衡ある舞台づくりを目指して、児童劇の世界にのめりこみ、今回、久々の大人のための舞台を楽しませてくれた。・・・アウラーは県内劇団にあってミュージカルをそれなりに表現できる存在で・・豊かな演劇づくりをめざし・・数々の場面でそうしたエネルギーのほとばしりを見せた。・・・地方都市における演劇の総合的課題をスマートに舞台化し続けてもらいたい。児童劇を通して培った均衡と、本来の不均衡な魅力を観客に向かっていかに調合してみせてくれるか楽しみである」(十二月十日夕刊)
 アウラーは当時の新しいリーダーであった。アウラーの結成から初期の活動にかけて、もっと掘り下げてみる必要がありそうだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿

登録 コメントの投稿 [Atom]

<< ホーム