2010年7月12日月曜日

いわて演劇通史49

昭和五十一年は、私が帰盛した年だ。東京で大学の演劇研究会の仲間たちと「無頼派」(後の東京プレイマップシアター)という劇団を立ち上げたばかりで、就職のためではあったが故郷へ帰ることに少なからず後ろめたさがあった。「地方の演劇なんて」と地域の文化レベルを蔑む気持ちがどこかであったかもしれない。盛岡に帰ったら「いい観客にならなければ」と芝居づくりの現場に別れを告げるつもりでいた。 
この年は、遠野物語ファンタジーが始まった年で、盛岡では盛岡ミュージカルプロデュースが解散した。新しい劇団では放送劇団にいた俳優たちを中心に「演劇研究会舞酔(まよい)」が誕生している。
ミュージカルプロデュースの解散に際し、作家・演出家としてその中核にいた赤石俊一氏(故人)は、「ミュージカルと地方演劇」と題して、地方演劇に対する在り方について、岩手日報に次のようなコメントを寄せている。
「観客になりきれない批評眼が、これまで多くの発芽をつみとってきたであろうし、これからもありうるのだとすれば・・。つぶれてしまう芽と、育てるべき芽。地方芸術の他の分野では、比較的おおらかに、それだからこそ厳しくなされている姿勢です。決して“甘く”なのではなく、舞台それ自体を地方文化に溶けこませることのできる鋭い目がなんと不足していることでしょう。
演出はもとより、作家、俳優の不在傾向の強い昨今の地方演劇であるからこそ、育つべき芽の動きは大切にしたいものです」
観客になりきれぬ批評眼とは、同じ演劇人の批評眼を指していることは想像できる。しかし、帰省したばかりの筆者にとって、当時の盛岡・岩手の演劇に運動論の対立が顕在化しているようには見えなかった。むしろ、随分と低迷しているのではないか、という印象だった。摘み取られた芽が多すぎていたのかもしれないし、つぶれるべきしてつぶれた芽も多かったかもしれない。しかし、地方文化の中に生きる演劇という視点での批評眼は今日でも少ない。演劇界においても、外においてもだ。
さて、昭和五十一年の年末の岩手日報「76岩手の芸術文化・舞台」には遠野物語ファンタジーと盛岡ミュージカルプロデュース以外に、一戸の「いろり」、盛岡の「舞酔」「九月とアウラー」、釜石の「げろっぺん」、宮古の「麦の会」、北上の「きたかぜ」、一関の「MOKU」などの劇団の公演記録が掲載されている。
旗上げ劇団は「舞酔」のみであるが、私は旗上げ公演「おしの」の舞台を見ている。五月九日、県民会館大ホール。大ホールなんかで芝居?小劇場演劇の洗礼を受けていたので、最初観劇を躊躇していたが、主演が高校の先輩「藤原正教」氏であることを記事で知り、つい足を運んでしまった。「いい観客になる」キッカケづくりの観劇の予定だったが、二人の俳優の演技が、その決意を鈍らせた。藤原正教と吉田政子である。

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