2010年7月12日月曜日

いわて演劇通史53

成二十一年十月十日(土)の岩手芸術祭公演を最後に「解散します」という連絡が劇団帯の会からあった。
この欄で「帯の会」のことについて記述するのはもう少し先になる予定だった。帯の会自身による初公演は、昭和五十九年(一九八四年)十月だからちょうど二十五年、四半世紀におよぶ活動だった。帯の会にかかる本格的な検証については、後日、関係者の話も伺いながら行うこととして、ここでは発足当時の概況を記してみたい。
前年の昭和五十八年、活躍中の若手演劇人と休業中の演劇OBたちが一緒につくりあげる舞台の呼びかけが始まった。当時県民会館職員だった斎藤五郎氏、劇作家の小林和夫氏(花巻市・故人)、放送劇で活躍する木村淳氏、小野寺瑞穂氏らが中心となったものだ。この構想は同年十月の「白萩の庭」公演(原作・太田俊穂、脚本・小林和夫、主催「白萩の庭を成功させる会」)として結実する。しばらく舞台から遠ざかっていた熟年俳優たちが「帯の会」を結成し公演の中核となり、当時活発な活動を展開していた二十歳代から三十歳代中心の「九月とアウラー」「赤い風」「亜季」らの劇団員も参加した。
赤い風の私もこの公演に役者として参加した。OBたちとは声の出し方から本の読み方まで、方法論がまるで違うことには驚いた。いわゆる新劇=リアリズムとも微妙に違う「盛岡の戦後演劇」に出会った。抑制された台詞術、キーワードとなるセリフの繰り返し、執拗に自ら名前を名乗ることなどは、後に、それは「耳だけで聞く演劇」放送劇に培われた手法であることがわかった。HNKラジオの「伸びゆく若葉」やIBCのラジオドラマが盛岡の演劇に大きな影響を与えていた。革新的な小劇場演劇の洗礼を受けていた私たちは大仰な身振りの演技や感情におもむくままの大声での独白には慣れてはいたが、微妙な人間関係を成立させる抑制された会話術の妙は新しい出会いだった。
会場となった県民会館には多くの観客が集まり、IBCテレビでは録画中継も行われた。この公演の成功が翌年十月の「劇団帯の会」(代表・木村淳)の自主的な旗揚げ公演「ふれあいの園」(作・演出、佐藤竜太)につながる。
「帯の会」はOBの会をもじったもので、ベテランと若手を結ぶ「帯」という意味も持つ。
この昭和五十八年は、様々な意味で盛岡の演劇界にとって忘れることができない年だった。
まず、三月に老朽化した旧盛岡劇場が取り壊されて「新盛岡劇場」建設運動が始まった。詳細については別号で記載するが、地域住民、演劇関係者、市民運動家、商店街関係者、盛岡芸妓衆らの複合的かつ自主的な運動だった。
同月、県の演劇団体連絡協議会の主催ではじめて演劇ワークショップが開催され、黒テントの山元清多氏が指導した。山元氏が指導した「物語る演劇」の手法は、翌月行われた「蛾と笹舟」などの小説の舞台化として劇団赤い風の演出術の一つとして継承される。山元氏はこれを契機に盛岡の様々な演劇シーンに指導者・協働者として関わりを持つことになる。
四月には元IBC岩手放送のアナウンサーだった畑中美耶子さんが積年の夢だった盛岡子供劇団「CATSきゃあ」を誕生させた。

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