2010年7月12日月曜日

いわて演劇通史57

北点画廊では、赤い風以外に来盛劇団の公演も行われた。
昭和五十四年十二月には元劇団変身の俳優、坂本長利の一人芝居「土佐源氏」が行われる。土佐源氏は公演数百回以上を数える当時の現代演劇の代表的な作品である。
五十六年六月には唐十郎の状況劇場とたもとをわかったアングラ演劇の創始者のひとり笹原茂朱が率いる劇団夜行館の密室芝居「幻灯荘」が行われる。夜行館は当時、弘前市に拠点を置いていた。公演には青森市のダビオン劇場の牧良介が特別出演している。
さらにその一ヶ月後の七月、北点画廊の観客動員を大きく塗り替えた公演が行われる。黒テントの赤いキャバレー公演「宮沢賢治旅行記」である。演劇センター六八/七一はその頃、六八/七一黒色テントの名を変えており、テント公演以外の小編成公演を「赤いキャバレー」と称していた。
この宮沢賢治旅行記「セロ弾きのゴーシュ」や「北守将軍と三人の兄弟医師」などの作品を地の文を含めほとんどまるごと台詞化するという「物語る演劇」の手法で話題を集めた。特にもベテラン村松克己の隙のない語りと、花形女優の金久美子(後、新宿梁山泊に参加)の美しい透明感は、それまでの賢治演劇のイメージを大きく変えた。照明は水銀灯二本のみ、舞台装置はほとんどなしという演出は、小劇場ならではのスタイルで、演劇は劇場に支配されることなく、どこでも演劇を行おうと思えば劇場になれるという小劇場演劇の論旨そのものであった。
作品は二日間上演され、実に三五〇人もの観客であふれた。当時、オーナーの協力で画廊の控室の壁を取り払い、幾分キャパは広くなっていたもののやはり一ステージ八〇人くらいが限界のスペースだったが、それを大きく超え、一回で百数十人が入場したのである。さすがに床の心配をした。
北点画廊のオーナーにはギャラリーとして利用の合間に公演会場として使わせて欲しいとのお願いだったが、この頃になると盛岡における小劇場演劇の拠点在京の演劇人や地元の報道機関に知られるようになってきていた。そのことが、一部美術関係者の不興を買ってしまった。「本来の画廊の使い方とは違う」という指摘はそのとおりである。やがて、オーナーの家庭の事情もあり、昭和五十六年末をもって北点画廊を公演会場で使うことはできなくなる。
しかし、この会場の公演活動の意味は大きい。約三年間の間、盛岡における小劇場演劇は市民権を得た。同時に、前号で記したように会場での交流を通じて、演劇人同士、多ジャンルとの交流が進んだ。
「ホールは表現を管理する場ではなく、広場である。かつて祭りが行われていた町や村の広場や神社の境内のように、多様な人種、表現が交りあい、表現をつくりあげる現代の広場である」
文化の言葉が通じない管理型ホールに反発し、黒テントの佐藤信が後に語って世田谷パブリックシアターの基本構想となり、盛岡劇場草創期十年の「演劇の広場づくり」の哲学ともつながるこの言葉の原点がここにあった。
この三年間で、赤い風より若い劇団では、九月とアウラーに所属していた浅沼徹が「劇黒あいらんど」を立ち上げ、寺山修司の「邪宗門」に挑戦した。やはり小劇場志向の集団で、やがて赤い風に編入する。高校演劇の系譜では「ありじこく」「彦組と親衛隊」の二グループが誕生した。

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