2010年7月12日月曜日

いわて演劇通史56

和四十八年六月の演劇センター六八/七一(現・劇団黒テント)の「さよなマックス」(作・山元清多)の盛岡初公演(八幡宮境内のテント公演)はわずか七十人の入りだったが、その後の黒テント公演は佐藤信の作・演出による「阿部定の犬」「キネマと探偵」(昭和五十年)、「キネマと怪人」(昭和五十二年)で、いずれも三〇〇人ほどを集客した。
黒テントの公演以降、昭和五十四年四月の劇団赤い風の「北点画廊」における旗上げ公演までの間、盛岡の劇団の非ホールでの公演は、新聞紙上での記録のかぎりでは昭和五十三年五月「演劇集団九月とアウラー」のロックミュージカル「ノアの箱舟」がヤマハ音楽センターで行われたのみである。ノアの箱舟は赤石俊一の作、浅沼久の演出で、上演時間は短かったが、3日間8ステージの強行スケジュールだった。会場の音楽センターには桟敷席が組まれテント劇場風の雰囲気を醸し出し精力的な舞台ではあったが、脚本自体は決して小劇場演劇を志向した作品ではなかった。
昭和五十四年四月の赤い風の旗上げ公演「バアーン」は、作品、舞台装置、演技スタイルまで俳優と観客の息遣いを共有できる小劇場演劇を志向したものだった。
座付き作家のおきあんごは寺山修司の天井桟敷出身であり、創始者の一人である私は学生演劇で唐十郎の強い影響を受けていた。また、二人とも黒テントの運動論を共有していた。数年の年の違いはあるが、なによりも東京の小劇場演劇の影響を強く受けている。他の仲間も演劇研究会「舞酔」で小劇場演劇のバイブル的作品ともいえる唐十郎の「少女仮面」を手掛けている。立派な近代ホールに寄り添って、古い形のリアリズム演劇に固執し活動をやめていく盛岡の老舗劇団にアンチテーゼを示そうとする意欲に満ちていた。
当時の若手劇団は九月とアウラー、亜季、舞酔の三劇団で、アウラーは舞台会社が支え、亜季と舞酔は県民会館職員が中心となって誕生した。いずれもホール上演できるスタッフ力を保持していた劇団なのである。反面、赤い風は作家と俳優中心の集団で、ホールを使いこなすだけのスタッフや集客力、経済力を持ち合わせていなかった。それゆえの小劇場の選択だったことも否めない。
北点画廊は、本町通りの肉屋の三階にあった。あまり使われていない画廊だったが、オーナーの理解で格安の料金で借りられた。画廊の天井高は三メートル弱。ミニライトなどを吊るすことができる格子状の金属枠が天井に張られていた。広さは七~八メートル四方だろうか。狭い演技エリアを除くと五十人も入れば満杯だった。
舞台照明設備はなく、当時県民会館の舞台技師だった劇団亜季の佐藤英也が家庭用のコントローラーと古いライトを活用して支援してくれた。
旗上げ公演から昭和五十六年の三カ年で赤い風は本公演では四回北点画廊で公演している。集客数も旗上げの6ステージ120人ほどから、コンスタントに2~300人ほど集めるほどになってきていた。小劇場ならではの舞台と客席が判然としない演出方法や終演後にかならず行われる車座になっての観客との意見交換が支持されたのかもしれない。詩人や美術家など演劇人以外との交流もそこから生まれてきた。特にも「詩誌百鬼」のグループとは、交流が深まった。後に赤い風の座付き作家となる工藤森栄、第三回公演の脚本を担当する藤原美幸や新田富子らである。

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