2010年7月12日月曜日

いわて演劇通史58

昭和五十六年末をもって北点画廊という拠点を失う劇団赤い風は、同年二月から上演してきた三部作「北街物語」の一作目「~血のフォーカスタウン~」二作目「~風の巡礼たち~」に続く三作目、「最終編~地上とは思いでならずや~」を昭和五十七年二月、伊藤楽器ホールで上演する。
「血のフォーカスタウン」は、北点物語、「風の巡礼たち」は盛岡市中央公民館と花巻市文化会館中ホールで上演していた。この頃から赤い風の新たな劇空間開拓へのチャレンジが始まる。ほとんど二十歳代の若い劇団員にとって、低額に押さえられているとはいえ設備の整っている県民会館中ホールの会場使用料は決して安くない。ちなみに、昭和五十五年、五十六年当時の盛岡市内の演劇公演概況をさらってみよう。
五十五年の活動で最も活発だったのが九月とアウラーである。「ブラームスはもう似合わない」(二月、県民会館)「ある雨の朝突然に・・」(十月、盛岡市中央公民館)「ザ・ワープ」(十一月、岩手教育会館)と三本の本公演のほか、「人魚姫」で一関(四月)、盛岡(六月)、大船渡(十一月)の移動公演を実現させた。結成十周年の五十六年も活発で、「ぼくのピーターパン」(三月、一関)「I LOVE ドラキュラ」(七月、善隣館)を記念公演として行った。
亜季は五十五年「女学生」(三月)と「ゴンの贈り物」(十一月)、五十六年「智恵子抄」(十二月)をいずれも県民会館で上演、舞酔は五十五年「誤解」、五十六年「思い出を売る男」「石川啄木」を上演している。両劇団とも県民会館職員がリーダーであることもあり、県民会館を主な公演会場としている。
昭和五十四年の赤い風結成から帯の会が誕生する五十八年頃までの間、盛岡の演劇は、九月とアウラー、亜季、舞酔、赤い風の四劇団の活動を軸に回っていた。他の新しい集団は結成公演こそ実現するが、次回公演につなげるところはほとんどなかった。
四劇団はミュージカル、新劇、小劇場演劇と上演傾向は様々だったが、いずれもリーダーが昭和二十年代生まれという共通項があり、強烈なライバル心でしのぎを削っていた。当時の各劇団の代表もしくは演出者等は「九月とアウラー」は宮川康一、 浅沼久、藤原正教、峰川進一、「亜季」は田村隆、佐藤英也、「舞酔」は石沢信司、「赤い風」はおきあんご、沢藤久司、坂田裕一、工藤森栄らであり、三十年後の現在まで、約半数の者が現役の演劇人として活動を続けている。彼らの先輩格の演劇人は当時、ほとんど活動から離れている。いわば現在の盛岡演劇界の系譜は、詩人部落などの戦後演劇の系譜と決別し、この時期にはじまったと言ってよいだろう。
ここで話を赤い風の新たな演劇空間探しに戻そう。
伊藤楽器ホール(盛岡市中央通り)で上演した赤い風は、同時に本町通りの裏通りにアトリエを構え、五十七年八月に初めての既成作品をアトリエ公演として上演する。当時の人気作家つかこうへいの「出発」と岸田戯曲賞を受賞したばかりの北村想の「寿歌」で二十二日から二十九日まで各三ステージ六回公演で、両公演も満員御礼が続いた。勿論、三~四十人も入れば満杯の狭い稽古場公演だが、新しい自前の拠点での講演で熱気にあふれていた。
しかし、県民会館のような設備の整った近代劇場での演劇上演を目指す活動が主流からはずれ、小劇場演劇が一般的になるにはまだ時間を要する。

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